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遺髪と腕時計 |
残すも託すも 家族の証し
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廿日市市阿品台の松本了さん(77)、幸子さん(75)夫妻はともに被爆者だ。夫は、原爆に奪われた妹の遺髪を守ってきた。妻は、被爆死した父の遺品である腕時計をこの夏、原爆資料館(広島市中区)に寄贈した。それぞれに、語り尽くせぬ思いがある。 了さんの妹登美枝さんは、広島女学院高等女学校(現広島女学院高)一年だった。爆心地から約一キロの雑魚場町(中区)で建物疎開作業中に閃光(せんこう)を浴び、四日後に息を引き取った。十二歳だった。 「暗幕をかけて…」。末期の言葉を了さんはよく覚えている。運ばれた宇品(南区)の病院で、妹は布団代わりに暗幕をかけてもらっていたらしい。外傷も少なく意識もあったのに、段原中町(南区)にあった自宅に連れて帰った翌日の朝、容体は急変した。 遺髪は少し茶色がかっている。その時に妹が着ていたブラウスの切れ端で巻き、ヘアピンでまとめて仏壇に納めている。原爆投下の翌月、広島を襲った枕崎台風で、墓が遺骨ごと流れた。だから手元に残る唯一の遺品である遺髪を、了さんはどうしても手放せない。 かたわらの妻幸子さん。高等女学校の教師をしていた父の横山繁さんは大手町(中区)で被爆死した。登美枝さんがいた場所より南西約三百メートル。四十歳だった。父は訳あってその日、女性用の腕時計を締めていた。母と一緒に探し回り、ようやく見つけた真珠のバンドが、身元の決め手となった。手首の骨が一緒にあった。 その記憶が「今は薄れがち」と幸子さん。時計を資料館に託したのは「百年先まで残したい」と思ったからだ。 広島市臨時職員の中本真樹さん(25)が、松本さん夫妻を訪ねた。生まれ育った広島の歴史を探りたくて、四年半前から観光客たちを案内する資料館のボランティアを務めている。被爆三世。祖母が被爆体験をつらそうに話すのが、ずっと気にかかっていた。 「祖母はあまり語りたがりません。他人に体験を話すことに抵抗はないですか」。中本さんは日ごろの疑問を夫妻にぶつけた。夫妻はそっと、遺髪を握らせてくれた。 |
【写真説明】ケース奥の形見の腕時計を見つめ、中本さん(左)に体験を語る松本さん夫妻=広島市中区、原爆資料館(撮影・田中慎二) |