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原爆病院 |
修羅場 水をあげるしか…
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広島市中区千田町の広島赤十字病院は、原爆の爆風に倒れず、焼失も免れた。焼け跡に残った命のランドマークはその直後から、治療を求める被爆者でごった返した。 看護師二年目の倉田恵里奈さん(23)と光平友子さん(23)は、今は広島赤十字・原爆病院と名を変え、建物も一新した同病院に勤める。6号館の原爆病棟(百七十床)に詰め、被爆者も含めた入院患者の点滴や食事のサポートに当たる。 被爆患者から体験を聞いたことはない。興味はあっても「(病気だから)きっと、それどころじゃないよね」と思って踏みとどまる。仕事をこなすことにも追われ、語らいの時間をつくれないでいる。 検査技師になって一年目の岡山翼さん(26)の仕事相手は機械越しに見る患者の血液だ。音楽活動に打ち込んでいた四年前、風邪をこじらせて入院。看護のぬくもりに触れたことが、病院勤務を志すきっかけとなった。ただ、今の職場には患者と触れ合う機会はない。 三人に共通の思いがある。「仮に今、原爆が落ちたら、自分たちは仕事をこなせるだろうか」 池庄司トミ子さん(77)=呉市=は当時、日赤広島支部救護看護婦養成部の学生として、この病院にいた。夜勤明けの八月六日、「突然、体がグルグル回ってねえ…」。二階にいたはずが、気づくと地下で男児を抱えていた。既に息はなかった。 階段を上がると、けが人でいっぱいだった。薬の瓶は割れ、使えない。自らも頭の傷からの出血が右目をふさぎ、折れた肋骨(ろっこつ)がうずく。白衣をまとった学生がこなしたのは、負傷者に水をあげることと、亡くなった人を運び出すこと。 修羅場をくぐった池庄司さんが、後輩の三人を病院に訪ねた。被爆翌年に体調を崩して辞め、その後は県外の病院勤務が続いたから、五十八年ぶりになる。大きく息を吐き、せきを切ったように語り始めた。「あれはそう、人がまるで、がれきのようでした」 もしあの日、自分がここにいたら―。若者三人はひたすら考えた。 |
【写真説明】)病院には被爆当時の建物から窓枠を切り取ったモニュメントが残る。その前で池庄司さん(左から3人目)の体験を聞く左から光平さん、倉田さん、岡山さん(撮影・今田豊) |