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母として |
娘は…燃えさかる街歩く
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千代子十七歳、美代子十四歳。原爆に娘二人を奪われた広島県府中町の沢田イチヨさん(93)は「気丈な子らで…」と声を震わせた。一九四五年春の写真の中で、二人はまっすぐ前を向く。 沢田さんは、爆心地から約二・五キロの吉島本町(現広島市中区吉島西)の自宅にいた。夫静馬さん(七二年に七十七歳で死去)の無事を確認すると、娘二人を捜して燃えさかる街を歩いた。 当てはなかった。「軍の機密。教えられませんよ、お母さん」。きまじめな二人は出動先を明かしていなかったからだ。防空ずきんと重湯を携え、何日も足を棒にした。同世代の女学生とすれ違うたび、顔をのぞき込んだ。病院では死者をまたぎ、血眼になってわが子を求めた。 美代子さんは爆心地に近い材木町で建物疎開作業をしていた。現在の平和記念公園(中区)の一角だ。終戦後、学校から連絡があった。他の学徒とひとまとめにしてあった遺骨箱から、かけらを取って和紙に包んだ。物陰に置いていたのだろうか、焼けずに残った手提げ袋が遺品だった。 千代子さんはその年の十月、遺骨で戻った。飯室村(現安佐北区)の広島第一陸軍病院飯室分院で被爆の四日後に息を引き取っていた。遺品の財布の中に、婚約者との写真があった。どこの軍需工場に動員されていたのか、今も分からない。 長男と三女は戦時中に病死していた。沢田さんは「もう二度と身ごもらない」と心に決めた。子どもたちの生きてきた証しをとどめようと、一九七〇年に静馬さんと一緒に体験記「子等(こら)よ」を書いた。今は、やはり被爆死した弟の長女三宅里子さん(60)夫妻と同居している。三宅さんは入市被爆者だ。 安佐南区のアルバイト大崎麻美子さん(28)は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)の「朗読ボランティア」。被爆体験記を子どもたちに読み聞かせる活動が、この春から始まる。 被爆者の気持ちにどこまで迫れるだろうか、伝えられるだろうか―。大崎さんは少しばかりの不安を胸に、沢田さんと三宅さんに向き合った。 |
【写真説明】体験記を手元に置き、大崎さん(右)に亡くなった娘への思いを語る沢田さん(左)と三宅さん(撮影・福井宏史) |