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セミパラの子へ |
右腕と3歳の息子奪われた
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原爆は右腕と息子の命を奪った。広島市南区、佐伯ヒサさん(85)の人生は、あの日を境に一変した。 東白島町(中区)の自宅にいた。爆心地から約一・五キロ。気づいたとき右腕は折れていた。泣きわめく三歳の長男を左わきに抱え、母親と近くの広島逓信病院へ。火の手が院内に迫ったとき、突如降り注いだ「黒い雨」に救われた。 腕はすぐに化膿(かのう)し、切断するしかなかった。長男はその年の十月、息を引き取った。軍役から戻った夫は、長女が誕生して間もない一九四七年、心臓まひで急死した。 縫製が得意だった。親子二人で生き抜こうと、足の指で布を広げ、震える左手で針を通した。夜なべした。やがて費やした時間と努力が実を結び、訪問着や振り袖の注文を受けるほどに上達した。 佐伯さんはかつて一度だけ、人前で体験を語ったことがある。被爆十年後の五五年夏、広島入りした第一回原水爆禁止世界大会のソ連代表らに通訳を介して伝えた。しかし大きく報道され、周囲の反感も招いた。以後は口を閉ざしてきた。 カザフスタンのヌルペイソヴァ・アルビナさん(18)とクリャミロヴァ・アリヤさん(17)は現在、山陽女学園高(廿日市市)に留学している。二人が生まれ育ったのはセミパラチンスク市。「ポリゴン」と呼ばれる旧ソ連の核実験場から約百二十キロ東に位置する。 「核実験のたびに家が大きく揺れた」とアルビナさんは幼い記憶をたどる。アリヤさんの祖父は二十年前、がんで死んだ。四十五歳という働き盛りでの死に、家族は今も「核実験の影響」との疑念をぬぐえずにいる。 二人は、広島の市民団体「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」が一年間ずつ被爆地に招いている留学生の五期目。祖国と同じ「核被害」を学ぼうと原爆資料館(中区)に通い、英字幕付きの被爆者証言ビデオと向き合う。日本語は習得している。癖のある広島弁は「難しい」。 佐伯さんは、被爆者の肉声を求める二人のひたむきさに好感を覚えた。自宅に招き、ゆっくり、じっくりと体験を聞かせた。二人はメモの手を休めない。三人で連れだって東白島町にも出向いた。佐伯さんにとって、六十年ぶりの自らの被爆地だった。 |
【写真説明】佐伯さん(左)の被爆体験を聞き出すアルビナさん(右)とアリヤさん(撮影・松元潮) |