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命の教え |
平和教育とは…悩み深く
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松本明子さん(24)は、広島市で中学教員になって一年目。広島に生まれ育ち、小学校から高校まで八月が近づけば平和教育を受けた記憶がある。毎年のように鶴を折り、ビデオを見た。自分自身に変化はさほどなかったように思う。 今年一月、松本さんは原爆資料館(中区)主催の平和講座「ピースクラブ」の発表会に出向いた。担任する女子生徒一人が、中高生たちのグループに加わって発表していた。平和への願いを込めた歌、平和問題に対する意識調査…。生徒たちが主体になった学習の豊かさと、生き生きした表情に驚いた。 この夏、自分が教壇で教えた平和教育を振り返ってみた。用意された資料をたどるだけの、やっつけ仕事ではなかったか。話の膨らませようがなかったのは、背景知識が不足していたせいではないのか。教室の生徒たちの顔に、中高生時代の自分が重なった。 広島高等師範学校(現広島大教育学部)一年だった加藤正矩さん(76)=西区=は、広島湾に浮かぶ金輪島(南区)で被爆した。堀川町(中区)の家に戻ったのは、火災が鎮まった翌七日。祖母と父は骨になっていた。母の遺体は自分で焼いた。その強烈な体験を後日、文章にはした。しかし、言葉にして話すことは、まだできない。 加藤さんは小学校教員だった。「平和教育からは逃げてきた」と明かす。イデオロギーに染まっているように見えたからだ。教え子に原爆を語らぬまま、一九八九年に教壇から去った。修学旅行生に向けた証言活動に参加するようになったのは四、五年前から。ただ自身の体験は口にできず、絵本や物語で、あの日を語る。 松本さんは、加藤さんの体験に耳を傾けてみたいと思った。広島市立大大学院一年で教員志望の西野絵梨さん(23)も対話に加わった。 子どもたちにヒロシマをどう伝えるか。あの日を見た先輩に、この悶々(もんもん)とした日々の悩みに風を通してほしい。平和教育について語りたい。二人は加藤さんの自宅があった辺りを共に歩いた。休日の繁華街、中央通りの一角。子どもたちの歓声も聞こえてくる。 |
【写真説明】自宅があった中央通りで、加藤さん(右)の体験に耳を傾ける西野さん(左)と松本さん(撮影・福井宏史) |