絵筆の思い

遺体や傷ついた人 道を覆う
描こうにも涙こらえ切れず
 


 広島城北高(広島市東区)社会問題研究部の石田一裕さん(16)と山本宏樹さん(17)、田原健司さん(16)は、
「原爆の絵」を描き続ける高原良雄さん(93)が被爆した地に、本人と一緒に立った。
広島第二陸軍病院があった中区基町の本川左岸。絵に込めた思いを聞いた。



 -高原
 石垣が陰になって白い光を浴びずにすんだ。(それでも)爆風で十メートルくらい向こうに飛ばされた。材木で埋まったんで、何時間かかけて出たです。「助けてくれ」と呼ぶ声がする。じゃがね、こんな大きな木で動かすこともできん。

 両手で円を作る高原さん。陸軍衛生兵として病院を見回り中、屋外に出た直後に被爆した。爆心地から約七百メートル。

 -高原
 道路のあった所はメチャメチャ。道が分からん。女の人を助けて、水際の石垣をつとうて川上に逃げた。

 -山本
 この土手を歩いたんですか。

 -高原
 そう。(京橋川をまたぐ)工兵橋の近くで兵隊が倒れとる。農家から借りた手車に三人積んだ。野戦病院になっとった戸坂(東区)の国民学校まで運んだんじゃ。明くる日にはみな死んどったがね。私も歯茎から血が出て頭の髪が抜けて。当分続いたですよ。

 -山本
 死体はあちこちに。

 -高原
 道路の両方へいっぱい。生きとる人も起きてよう歩けん。へたったまま「水くれ、水くれ」と。着とる服もボロボロで哀れなもんですよ。やけども少々の水膨れじゃないんじゃけえ。明くる日には破れて今度は腐り出す。

 -山本
 なんで膨れるんです。

 -高原
 やけどしたら膨れるわけで、それが大きいの。手がつけられん。道路にはみな、横たわって寝とる。兵隊には名札が付いとって、それを見て初めて誰かが分かるんじゃけえ。

 石田さんたちは一心不乱にメモを取る。

 -高原
 寺町(中区)の寺の屋根はない。何もない。広島駅や己斐駅(現在の西広島駅)が見える。原っぱになっとるんじゃ。

 -田原
 すべてつぶされたんですか。

 -高原
 パアッと飛ばされとった。

 -石田
 遺体を焼くにおいで、食べ物を食べられなかったって聞いたことがあるんですけど。

 -高原
 死んだら、山のように積んで油をかけて焼いた。毎晩毎晩…。気の毒じゃった。あのにおいは何とも言えん。

 同じ班にいた約三百人のうち、生き残ったのは三人だったという。爆心地から一キロ以内にいた人は、その年の十一月までに九割強が亡くなったとのデータもある。

 -山本
 食べる物はどうしていたんですか。

 -高原
 闇市言うてね。いろんな所で物を買(こ)うて高う売る商売があった。私も自転車で三次や庄原まで米を買いに行ったもの。取り締まりが厳しかったんでね、服やズボンの下に隠して。嫁さんの着物と替えたんで、ほとんどなくなってしもうた。

 -山本
 そんな生活はどれくらい続いたんですか。

 -高原
 三年、いや五年まではならんかったと思うが…。草とかを練って売りよった江波団子も食べた。鉄道草という背の高い草も食べよった。そうやって辛抱したんじゃけえ。

 被爆後の「江波団子」は海草などを練り込んでいた。当時、市民の食糧難を救うほどに売れたとされる。四人の対話は、戦争観に。

 -高原
 軍隊が勝ちゃあええ言うて、その犠牲になった国民は本当に哀れなもん。家族がバラバラになるんじゃ。戦争はだめ。絶対に。軍歌を考えてごらん。戦争の文句でしょう。国のために死ぬのは本望じゃと頭から教育されとる。

 -山本
 もしも上の人にさからったら。

 -高原
 脱走兵は撃たれる。どうせ死ぬんだったらおる。命に対する考えが全然ない。戦争は絶対だめ。一つもええことはない。原爆もどっかが使えば大ごと。今は広島の原爆より五倍も十倍も大きいらしいんじゃ。ポーンと落としたら、一つの街をつぶすのはわけはない。地球は、わやじゃ。戦争は絶対にあったらいけんと思うて、絵であらわそうと考えた。

 高原さんは自分の絵を撮った写真を取り出した。

 -高原
 これは電車が焼けて人が右往左往しとる。これは死体を焼くところ。

 今度は大勢の「原爆の絵」を収録した本を広げて見せた。

 -高原
 これは私のじゃない、ほかの人の(作品)ですがね。私のように、水際をつたって逃げていきよるでしょう。人がいっぱい、魚が死んどるように川を流れよる。どうにもならん。戦争というものが、いかにつまらんでばかばかしいかと思う。

 -田原
 これまでにどれくらいの絵を。

 -高原
 八十枚くらい。(被爆から)三年ほどは気持ちがいっぱいで絵が描けんのじゃ。初めは涙が出てしょうがなかった。戦争はむごたらしい。分かってくれりゃあええのうと思うて。

 -山本
 絵を始めたのはいつ。

 -高原
 十五歳。映画館の看板をよう見に行きよった。二十歳のときから東京美術学校(現東京芸術大美術学部)に四年通って。果物一つも描き方で「食べたい」という気持ちになるんじゃ。おもしろい。

 高原さんは今も口田公民館(安佐北区)で月二回、お年寄りに絵を教えている。話題が原爆の絵に戻ると、声がまた沈みがちになった。

 -高原
 きれいなもんならええが…。見るんもいやじゃった。かわいそうで気の毒で…。映画なんか見た? 原爆の。

 -山本
 最近、見てないですね。

 -高原
 米国の映画なんかでね、殺し合うのを見てどう思う。

 -山本
 ゲームみたいな感じで殺し合いをやってるけど、本当はありえんし、不思議。

 -高原
 死んで痛いとか、親子がどうとか考えんでしょう。ゲームはいけんよ。格好ええけどね。パンパン撃って。その弾が入ったらと考えてみんさいや。大変よ。

 -田原
 原爆を落とした米国への思いは。

 -高原
 呉がやられた(空襲された)とき、何で降参してくれんかったんかなあ。広島と長崎が犠牲になって初めて目覚めたんじゃ。

 角度を変えて質問を繰り返しても、高原さんの「米国への思い」の答えは返ってこない。被爆の衝撃が強すぎ、憎しみを通り越してしまっているという。

 -山本
 絵で確認しながら話が聞けて、より本当に近づけた感じはするけど、自分はその場面を見てないから…。

 -高原
 倒れて血を流して、「ハアハア」とうめき声が聞こえる。実際には分からんじゃろうよ。そりゃあ。

 -田原
 これからも絵を通して原爆のことを伝えていくんですか。

 -高原
 今年は人を焼きよるところを描こうと思う。焼かれる人の表情は、細かいところも覚えとる。50号の大きいサイズで。油絵は高うつくけえ、水彩画で描こう思うんです。死ぬるまで描きます。それが私の最後のお務めよ。




「むごたらしいことがあった。それを分かってもらえりゃええ」。被爆地を訪ねた高原さん(左から2人目)から絵にこめた体験を聞く左から石田さん、田原さん、山本さん(撮影・福井宏史) 



広島第二陸軍病院で被爆した瞬間を描いた作品。高原さんは石垣に隠れる自身を客観的に描いた 


戸坂国民学校の遺体焼却現場を描いた高原さんの作品 





●クリック 

 原爆の絵

  1974、75年、NHKが全国の被爆者たちから原爆の惨状を描いた絵を公募し、2225点が寄せられた。2002年には原爆資料館と中国新聞社も呼び掛けに加わり、さらに1338点が集まった。
 息絶えた母に水を飲ませようとする幼子、娘の遺体を焼く父親…。絵の中に、当時の記憶を文章でつづった作品が多い。血の色を塗るのをためらって鉛筆描きにとどめたり、裸で横たわる負傷者を気遣って毛布をわざと描き足した作品もある。
 絵の作者から体験を聞き取る作業は、原爆資料館資料調査研究会メンバー直野章子さん(33)=兵庫県西宮市=が01年に始めた。城北高のほか広島市内の会社員グループも協力し、今年2月末までに約60人を訪ねている。
 同資料館は作品の一部を館内で展示し、ホームページでも公開している。 アドレスは、

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database/


 



 語り終えて

高原さん
表現し続けることが務め

 原爆がいかにむごたらしく、ひどいか。話だけでは、今の若い人は思い浮かべることができないと思う。だからこそ筆をとる気になった。
 原爆は乳飲み子や年寄り、女性を無差別に殺した。描くのはつらい。でも、伝え残さねばならないとの使命感が先に来る。死ぬまで描き続けることが、生き残った私にできる最後の務め。
 そんな気持ちの整理がついた五、六年前から、絵のサイズを少しずつ大きくしている。それまで描けずにいた死者の表情を、より具体的に表現したい。



 聞き終えて

石田さん
「戦争はいけない」響く

 まだ描きたい、細かい表情まで鮮明に覚えている、という言葉にびっくりした。これまでの作品も十分細かく描かれている。原爆がどれだけ強烈だったのかと思う。
 高原さんは涙を浮かべ、「戦争はいけない」と十五回以上言った。これこそが、僕らに伝えたいすべてだと思った。


山本さん
絵と体験談を重ね理解

 被爆体験を聞くたび、命の尊さや戦争の残酷さ、人が人を殺す悲しみを思い知らされる。絵だけでは断片的に感じた惨状も、体験談とリンクさせることで理解できた。
 阿鼻(あび)叫喚を完全に知ることはできない。けど、聞き取りを重ね、平和を伝えていくことはできると思う。


田原さん
熱意を後世に伝えたい

 高原さんは「原爆を落としてはいけない」「戦争はいけない」と、何度も何度も繰り返した。その言葉から原爆の衝撃に触れ、少しだけど、分かった気がした。
 惨状を伝えるため、苦しみながら描いた絵を寄付し続ける熱意にも打たれた。その思いを後世にもずっと伝え残したい。




担当記者から

  巧拙を超えて心揺さぶる

 「原爆の絵」に触れるたび、作者があの時、絵の中にいたことを実感する。芸術作品や事実を切り取った写真とは少し違う。作者の生々しい思いを感じ取りたいとの気持ちが高ぶってくる。だから高校生3人も、熱心に聞き入ったのだろう。
 絵には上手も下手もある。中には死者を丸と線であらわした作品もある。稚拙というより、意図的にリアルな表現は避けたのかもしれない。そんなことを考えると、胸が詰まる。高原さんもキャンバスに向かうたびに泣いているんだ。(桜井邦彦、門脇正樹


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