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「原爆一号」とともに |
さらした背中 核をのろう
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「原爆一号」と呼ばれた男がいた。原爆のむごさと被爆者の怒りを国内外に訴えるため、背中のケロイドをさらした。一九八六年、七十四歳で死去した吉川清さん。広島で最初の被爆者組織をつくり、死の間際まで被爆者援護法の制定を願い続けた人生だった。 その死を機に、妻生美さん(83)=広島市中区=は体験の証言活動を始めた。平和記念公園(中区)で修学旅行生たちに、夫と寄り添って歩いた被爆後の人生を語る。 爆心地から約一・六キロの白島西中町(現中区西白島町)にあった自宅。閃光(せんこう)は二人の背中を焼いた。広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院=中区)に入院していた四六年、米国の記者から受けた取材が二人の運命を変える。清さんの肌を見た米国人記者が叫んだ。訳して「原爆一号」。日本の新聞紙上でも大きく躍った。 清さんは、不名誉とも思えるその名を、あえて背負った。五一年から十六年間、原爆ドームわきなどに記念品店「原爆一号の店」を構え、訪れる観光客らにドームの置物や絵はがきなどを売った。請われれば、焼かれた背中を見せた。 商品が売れるほどに、被爆者仲間からは反感も買った。「原爆を売り物にしている」。冷ややかな視線に、清さんは「売りまくって、核をのろうのだ」と反論した。信念を貫く夫を、やがて店を一人で切り盛りする生美さんが支えた。 清さんの死後、生美さんは築約四十年の家に一人で暮らす。押し入れには、夫が残し、自らも築き上げてきた被爆関連の資料が山積みに。整理して原爆資料館(中区)に寄贈しようと思うが、老いた体は思うに任せない。「誰かの手助けがほしい」と願ってきた。 安田女子大大学院(安佐南区)一年の大田桃子さん(22)と、比治山大(東区)一年の北泰之さん(19)が名乗り出た。二人とも、平和活動に取り組む広島YMCA(中区)国際ボランティアの一員だ。 夫妻の店があった原爆ドーム周辺を三人は歩いた。その後、清さんの遺影が見守る自宅の居間で、資料をひもといた。 |
【写真説明】原爆の子の像前で、河野さん(中)と竹内さん(右)に病室での思い出を語る大倉さん(撮影・藤井康正) |