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エノラ・ゲイ |
伝わらぬきのこ雲の下の惨状
思いだけでなく「道具」が必要
被爆者の小倉桂子さん(67)は、広陵高二年の府木拓さん(16)、木本美由貴さん(16)と広島市中区の原爆資料館を見て回った。
東館一階中央のモニターに、B29爆撃機の飛行シーンが大映しになる。広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」も、このB29だ。
-小倉 ここに来ると主人を思い出す。市民が少しずつお金を出し合って米国から被爆関連資料(映像)を買い戻す「10フィート運動」というのがあって、主人はそれにかかわっていたの。 亡き夫の馨さん(一九七九年に五十八歳で死去)は原爆資料館の館長だった。広島市と長崎市は七四年、米国立公文書館から写真や文献を買い戻すため調査団を編成。館長の後に、市渉外課長を務めていた馨さんも一員として渡米した。資料館には、その際に収集した資料が並ぶ。 -府木 米国が無償で提供してくれたものだとばかり思っていた。 -小倉 無償のものもあるけど、ほとんど買ったの。向こう(米国)は「勝手に探してください」って感じ。主人はワシントンに一カ月間滞在して、朝から晩まで資料を探したそうよ。 小倉さんは自身の被爆体験を語りだした。牛田国民学校(東区)の二年生で、爆心地から二・四キロの自宅前で遊んでいた。 -小倉 私は原爆が落ちる瞬間を見た。あの日はなぜか、父が学校を休むように言うので自宅にいたの。空を飛ぶ「Bさん」(B29)を見ていたら、「ピカッ、ドーン」って。外にいたのになぜか暗くなった。ほこりとかと一緒に、ものすごい勢いで風が吹いてきた。しばらくして「黒い雨」が降ってきた。 一息つき、生徒たちを見詰める。 -小倉 あなたたちの話も聞かせてよ。 -府木 (今年一月に)テニアン島に行ってきました。海はすごくきれいで、まるで絵の具の青を垂らしたようだった。 -小倉 そう、戦争がなければ(私もそう思えるのに)…。 あの日、小倉さんが見たB29「エノラ・ゲイ」は、テニアンから原爆を搭載して飛び立った。 -府木 ここからと想像したら、不思議でならなかった。こんな小さな島から、あんな大きな事が起こるなんて。 -小倉 基地関連の資料館とかはあるの。 -府木 エノラ・ゲイに原爆を搭載した場所を示す看板がありました。 -小倉 ほかにどんなことをしたの。 -府木 現地の中・高校と姉妹提携しました。授業に加わる機会もあり、私は「原爆についてどう思っているの」と尋ねたんです。そしたら「写真とビデオでしかみたことがない」と。私たち日本の若い世代と同じで、(戦争に対する)実感がないと気づいた。 -小倉 私は自分を(被爆の)体験を伝えられる最後の世代と思っている。エノラ・ゲイは、米国では「素晴らしい機体」。二十年ほど前に渡米したとき、米国の人から「コングラチュレーション(おめでとう)」と言われた。「原爆が落ちたから、君は今ここにいる。でなければ、日本人はみな腹切りしていたでしょ」と。 そう言ったのは、小倉さんの言葉を借りれば「平和愛好者」だったという。憤慨する小倉さんの話に二人が引きこまれる。 -小倉 きのこ雲の上と下では、目線にものすごく差がある。目線の高い人に惨状を伝えるには、思いだけでは足りない。写真とかデータとか、何か道具が必要。正しい歴史と事実を学んだ頭も要る。私は優秀であるより、ヒロシマを伝える技術を持つ通訳を目指している。ノウハウがあれば、きっと後の若い人たちにもヒロシマを伝えることができる。 米スミソニアン航空宇宙博物館は二〇〇三年十二月、エノラ・ゲイの復元機体の一般公開を始めた。広島県原水禁は、小倉さんと坪井直常任理事の被爆者二人と、被爆二世一人を現地に派遣し、原爆被害についての説明を抜きにした展示に抗議した。 -小倉 渡米前、派遣団の記事がインターネットで出回ったの。そしたら、脅しの電子メールがたくさん届いた。 小倉さんは、そのメールのコピーを持参していた。「良心の呵責(かしゃく)や後悔を覚えることなく、エノラ・ゲイを誇る正当な理由が米国にはある」「あなた方がわが国に来て抗議することは、非常に腹立たしい」。英文でつづられている。 -小倉 一緒に行った坪井先生は展示にどんどん近づくけど、私は動けない。しまっていた恐怖が噴き出して体が震えた。無抵抗な人に、空から襲いかかった悪魔の機体です。泣く泣く近づいて説明を見ると「当時の最先端の飛行機」と。情けなくなった。地元の平和団体は「被害に触れない展示はおかしい」と言ってくれたけど、「帰れ」と罵声(ばせい)を浴びせる米国人来館者もいた。 小倉さんは、テニアンの人々について聞きたがった。 -小倉 「広島から来た」と言ったら、どんな反応だった? -府木 (同世代の若者は)「米国本土と違い、本当に悪いことをしたと私たちは思っている」と言っていた。「お互い平和に向けて取り組もう」と。 -小倉 過去の歴史は忘れちゃいけない。きちんと理解して、それからどうするかが大切。 -府木 原爆(の被害)について(テニアンの人たちは)ちゃんと理解してくれたと思う。 -小倉 良かったね。テニアンの生徒さんとは再会するの。 -府木 五月に(広島で)再会します。島には大砲も戦車もあった。実際に見て触って、本当に戦争はやっちゃいけないと思った。「自決岬」という岬があって、近くに連れて行ってもらった。米軍から逃れるため、(民間人も含め)日本人が隠れた洞窟(どうくつ)があったらしい。泣きわめく子どもを黙らせるために、親たちは首を絞めたりしたと…。 -小倉 誰に聞いたの。 -府木 現地の(日本人の)高校の先生から。 -小倉 そう、あなたたちもテニアンに行って学んだのね。 -府木 自決岬にはまだ遺体が残っているらしいんです。最後まで生き残っていた日本人が使ったという茶わんも触らせてもらったんです。戦争を感じた。 -小倉 触るって大切なの。平和記念公園(中区)で被爆当時の地面が残っているのは慈仙寺跡に残る墓石の周りだけ。そこに外国人を連れて行くと、みんな触りたがる。あなたの話には力があるね。 平和記念公園はあちこちが盛り土されるなどして、被爆当時の地表面はほとんど残っていないとされる。地面の高さが当時と同じなのが、慈仙寺跡の一帯である。 -府木 聞く、かぐ、感じるって大切だと思う。触ることで、今まで思わなかったことも思うようになった。 -小倉 それも思いを伝える技術の一つ。いい体験したねえ。 -府木 すごく一生懸命に(平和活動を)やっている若者が(私の周辺にも)いる。私はまだ、語るまではしていない。伝える努力をしている同世代が格好良く見える。 -小倉 平和運動はスピーカーのように騒ぐものじゃない。凍った心を解かすように少しずつ進めていくことが大切。ハートフルなだけじゃなく、コミュニケーションができる道具を持って。(木本さんに)あなたの道具はなあに。英語が好き? -木本 はい。 木本さんは学校の英語研究部長を務める。 -小倉 あなたなりに興味のあることをやって。「ヒロシマの子」っていうだけで、海外の人は、みんな話を聞きたがるんだから。 -木本 原爆投下の事実をちゃんと知り、伝えたい。考え方に違いはあるかもしれないけど、自分なりに思いを伝えたい。 -小倉 それは、どんな思い? -木本 きょう感じたこと、原爆について知ったこと。自分の考えを伝えられたら、それが平和の活動の一歩になるんじゃないかと思う。 -小倉 伝えるうえで常に、あなたの心の中が問われるの。ヒロシマの一人として、伝えてあげてください。 |
![]() 原爆資料館で、府木さん(左)と木本さん(右)に体験を話す小倉さん。後ろのモニターに、飛行するB29の姿が映る(撮影・今田豊) ![]() 米スミソニアン航空宇宙博物館新館で復元展示されたエノラ・ゲイ(2003年12月) ![]() エノラ・ゲイが離陸したテニアン島北部の飛行場ノース・フィールド。滑走路は米軍の演習で今も使われているという(広陵高提供) ![]() ![]()
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語り終えて |
小倉さん 優しい心で語り合って 広陵高の生徒のテニアン島での経験は、逆に、私の心を打った。教科書で習うくらいで、彼らも戦争や平和の問題を遠く感じていたのかもしれない。広島を見る目が変わっただろうと思った。 米国では「原爆は正しかった」と教えられている。だから私は、米国の人たちに被爆の体験を話してきた。地元広島の若者に語るのは今回が初めてだったけれど、私の話を吸収し、伝えてくれることをうれしく感じた。これからは日本の若者にも伝えたい。そして彼らには、世界に伝えていってほしい。 |
聞き終えて |
府木さん 戦争反対の考え 深めた 小倉さんの話の中では「恐ろしい」「怖かった」という言葉がよく出てきた。その一つ一つが生々しく聞こえ、戦争の悲しさが伝わってきた。 私はテニアンの軍事施設跡や自決岬で、いろいろなものを見て触ってきた。戦争はやってはいけないし、無差別に人を殺してはいけないとの考えを強くした。こうした思いを基に、これからを大切に生きていきたい。 木本さん 日米のギャップに驚き 米国人の多くは日本への原爆投下をよかったと思い、それによって日本が救われたと考えていると聞き、日米の考え方のギャップに驚いた。 「おめでとう」と被爆者に言うなんて信じられない。命を奪ってよいことなど何もない。悲しかった。広島に住む者として原爆についての事実を知り、自分の考えを伝えないといけない責任感がわいてきた。 |
●担当記者から モノにこめた「思い」伝わる 「触る」ことにこだわる小倉さんと府木さんとのやりとりに、記者も引き込まれた。モノの存在感とでも言おうか。エノラ・ゲイの圧倒的な巨大さも、見方によっては物質文明の成熟した姿だ。だが、科学技術が凶器というモノを生むおぞましさをも感じさせる。 二人の体験談を黙って聞いていた木本さんは、最後に「感じたことや知ったことで自分の考えを伝えたい」と一言。頼もしさを感じた。三人とも、モノにこめる「思い」の大切さを言いたかったのだろう。(桜井邦彦、門脇正樹) |