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胎内の記憶 |
父の遺品を手に証言始めた
大きな拍手 迷い吹っ切れた
原爆資料館(広島市中区)館長の畑口実さん(59)は、父二郎さんが被爆死したJR広島駅前(南区)に、
浦上晶絵さん(25)、山下勇作さん(22)、吉居哲弘さん(21)の三人を案内した。
母の胎内にいた畑口さんに、父の記憶は何もない。
-畑口 三十一歳だった父は、広島駅に近い広島鉄道局管理部に勤務中に被爆しました。当時、約二十キロ離れた宮島口(広島県大野町)の家にいた母は「あんまり音はせんかった」と。もうもうと煙が立つのを見たそうです。 畑口さんが母チエノさん(87)の胎内に宿って二カ月余りだった。 -畑口 八月十日に鉄道が己斐駅(西区、現西広島駅)まで通り、母はようやく父を捜しに出ました。そこから管理部まで(約五・五キロを)歩いたんですが、建物は既に焼け落ちていた。生き残った人から父がいた場所を聞き、そこから懐中時計とベルトのバックルが…。父のでした。近くにあった骨と一緒に持ち帰ったそうです。 畑口さんは遺品を見せた。時計は短針が八時を指したまま止まり、長針は溶けてなくなっている。バックルは「全鉄道通信競技会」参加記念品だった。 -畑口 私は翌年三月に生まれたんです。原爆がもう二カ月余り早く落ちてたら、きっと生まれてない。母は生きるのに精いっぱいで、原爆の話をほとんどせんかったから、私も被爆者であることをあまり意識せずに生きてきた。友達や同僚、上司にも、自分が被爆者であることを明かさなかった。哀れみを受けるようで嫌だった。 -吉居 意識し始めたのはいつごろですか。 -畑口 二十一歳のとき。母が被爆者健康手帳を取ったので、私も受動的に(取得した)。でも、四十すぎまでは使わなかった。手帳を見せたら医療費が要らないんですよ。でも、使えば被爆を認めてしまうようで、嫌だった。 -浦上 原爆をどう感じていますか。 -畑口 逃げておったいうか、複雑だった。資料館にもほとんど行ったことがなかった。五十回忌にいったん、この遺品を父の墓に納めたんです。その後に館長になってスピーチせにゃいけんようになったけど、平和についてしゃべる材料がなくてね。先輩に遺品のことを話したら、「そりゃあ(原爆の惨状を伝えるには)ええ材料になる」と。墓を掘りました。 館長就任は一九九七年。翌年に広島、長崎両市がインドで開いた原爆展に遺品を持って行き、大学で証言した。 -畑口 学生たちがまっすぐな目で見てくれて、話し終わると拍手がゴーンとわいた。それがきっかけで吹っ切れた。遺品を手に被爆者が証言することに「ああ、そういうことなんか」と。 -吉居 米国人に話すこともあるんですか。 -畑口 館内を案内すると(彼らは原爆投下について)「戦争を終わらすため仕方なかった」と。それが遺品を見ると黙ってしまう。一度、父の遺品も見せたんです。目を真っ赤にして、黙ってしまった。話し合い、思いを一緒にしないといけないのに、遺品は相手を黙らせてしまう。本当の意味で理解が得られない。出した方が伝わるんだけど、出すとね…。 畑口さんはいつも、遺品を見せるかどうか考え、出すにしてもタイミングを計るという。 -吉居 友人のおじいちゃんは戦争体験を話さない。嫌だと。 -畑口 私も館長にならんかったら、永遠にしゃべらんかった。何かのきっかけがないとね。何で自分のことを話さにゃいけんのかと。 -吉居 実際に話して、どんな感覚ですか。 -畑口 経験を積むほど「こういった場面で(自分が)涙を流せば」と分かる。でも演技はしたくない。事実を淡々としゃべって、相手の気持ちが入り込んでくればいいし、反応がなくても、それはそれでいい。 -浦上 親せきから戦争体験を聞こうと思っているけど、まだ面と向かう勇気がないんです。 -畑口 浦上さんは青年海外協力隊員だったんですね。どこの国に行ったの。 -浦上 中米のニカラグアにこの四月まで二年間いました。同期にたまたま広島出身者が四人いて、原爆資料館からポスター三十枚とビデオを借りて現地で原爆展を開いたんです。 -畑口 ああ、そうでしたか。 -浦上 広島から来たと話すと、原爆のことを聞いてくるんですよ。「草は生えてるのか」「被爆者は生きているのか」と。最初はお好み焼きとかを振る舞う催しを考えていたんですけど、とにかく原爆への質問がすごい。原爆展をやろうと決めたんです。 -畑口 反応はどうでしたか。 -浦上 三都市で計六回開いて、みんな食い入るように見てた。私たちは平和学習を受けてきたので原爆を知ってるつもりだったけど、破壊の規模とか人体への影響とか、答えられないことばかり。いろいろ調べて、回を重ねるごとに内容を充実させていきました。一番勉強したのは、実は自分たちだった。 黙って聞いていた山下さんと吉居さんに、畑口さんが話を振った。山下さんは鹿児島県、吉居さんは長崎県出身だ。 -畑口 広島にどんなイメージを持っていましたか。 -吉居 (テレビなどで知っていて)僕たちの住んでいるところと特に違いは感じなかった。 -畑口 国内はそんな感じ。浦上さんが言うように、外国の人は特別な目で見る。中国であれ中近東であれ、ほとんどの国の人がヒロシマを知っている。 -山下 何で特別なんでしょうか。 -畑口 一瞬で街が消え、家族や社会生活を失った。六十年たった今も、被爆者は後障害の不安を抱え生きている。東京大空襲でも何十万人と亡くなっているが、原爆の被害は数字だけでは表せない。勉強するほどに私自身も(自分の健康に)不安になる。 -吉居 実際、僕たちは体験してないから、聞くしかない。 -畑口 日本人は戦争を身近にとらえない。唯一の被爆国として国全体が(戦争や平和について考えることに)盛り上がればいいけど、広島でさえそうなってない。教える先生もほとんど戦後世代。広島への修学旅行は減り、(行き先が)アジアやテーマパークに切り替わっている。 -吉居 核保有国の人も資料館に来ますか。 -畑口 多いですよ。インドなんか特に。 -吉居 インドが核を持ったのはいつごろ。 -畑口 九七年にパキスタンと同時に。相手が持つから持つという論理。核拡散防止条約(NPT)に反した。一方、NPTの条文で保有国は核軍縮に努めねばならないのに、核実験は繰り返されるばかり。まして米国はテロ対策を理由に、使える核兵器を開発しようとしている。 -浦上 ヒロシマを発信しようと頑張る若者もいます。どう思いますか。 -畑口 うれしいし勇気づけられる。ありがたいし感心する。そんな気持ちを芽生えさせるきっかけづくりが、われわれの仕事だと思う。 -吉居 僕らにとって平和という言葉は現実味がない。遠いものに思える。 -畑口 戦争は起こってからじゃ遅い。繰り返してはならない。ヒロシマは(復興を遂げることで)原爆に負けなかった。だから、世界に勇気や希望を与えられるのもヒロシマなんです。今後、あなたたちが広島に残っても離れても、ヒロシマを胸に刻み続けてほしい。誰かに話せるようになってほしい。 |
![]() 「若い力でヒロシマの発信力を高めてください」。原爆資料館で原爆投下直後の街を再現したパノラマを前に、畑口さん(右端)の思いを受け止める左から吉居さん、浦上さん、山下さん(撮影・藤井康正) ![]() 畑口さんの父二郎さんの遺品。短針が8時ごろを指す焼け焦げた懐中時計と、「全鉄道通信競技會 廣鉄参加記念」と刻まれたバックル ![]()
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語り終えて |
畑口さん できること探し続けて 私は被爆直後の焼け跡を見ていない。ですが、母から聞いた証言と父の遺品をもとに語った。どれくらい理解してもらえたかは分からないが、三人がヒロシマを伝えるきっかけになってほしい。 浦上さんが原爆展を自主的に開いたのは素晴らしい。かなりのパワーが必要なのに、広島出身であることを意識し、何かしなければという気持ちが芽生えたんでしょう。 学生二人は今後、海外の人と接する機会が必ずあるはず。県外から広島の大学に進んだのも何かの縁。就職などで離れたとしても、その先でできることを探してくれたらうれしい。 |
聞き終えて |
浦上さん 重い体験 鈍痛覚えた ニカラグアでの原爆展がきっかけで、帰国後は被爆者の体験を聞こうと決めていた。念願はかなったけど、聞く側にも相当のエネルギーが要り、鈍痛を覚えた。今後も、被爆者の話にどんどん耳を傾けようと思う。再び海外に行く機会を得たなら、広島出身者として何かしたい。 山下さん 惨状 人ごとではない 今までは原爆の資料や写真を見ても「ひどい」と思うだけで、深く考えることはなかった。実際に被爆者と話し、人ごとではない気持ちになった。当時を思い出したくなくても、悲惨さを話してくれる人もいる。その人たちの思いを受け止め、私たちも伝えていかなければいけない。 吉居さん 思いを継ぎ広めたい 最初に見せていただいた時計とベルトはインパクトがあった。畑口さんの感情が直接感じられたから。私たちには戦争も原爆も、身近なものではなくなっている。ただ、広島が原爆を受けた事実は変わらない。被爆者の方の思いを受け継ぎ、世界に発信していかなければと思った。 |
●担当記者から 「きっかけ」を大切に 「館長にならなかったら」「ニカラグアで原爆展をしなかったら」「広島の大学を選ばなかったら」。5時間を超す対話を通じ、「きっかけ」というキーワードが浮かび上がってきた。 私たちも似たようなものだ。原爆・平和報道に携わるまでは「8・6」を夏の風物詩ととらえていた。取材で被爆者の怒りや悲しみを知り、継承の意欲を行動に移せないと悩む若者と出会った。ヒロシマには原爆との接点がたくさんある。「一期一会」を大切にしたい。(桜井邦彦、門脇正樹) |