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スイバのころ |
集団疎開先 忘られぬ味
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原爆の爆心地から約三十キロ北の広島県本地村(現北広島町)。一九四五年八月六日、坂口博美さん(70)=広島市西区=はここで閃光(せんこう)を感じ、音も聞いた。きのこ雲の下では両親たち家族六人が息絶えていた。 その四カ月前、坂口さんたち神崎国民学校(中区、現神崎小)の児童約四十人は集団疎開した。バスに乗り、つづら折りの峠を越え、着いたのが本地村の専教寺。 育ち盛りの胃袋を満たすため、しばしば道端のスイバをかじった。家族からの手紙が待ち遠しかった。四十六歳だった母ウメさんは、こうつづってよこした。「お母さんは敵のバクダンになんかに死にたくありません」 そのバクダンに両親たちが奪われたと知ったのは原爆投下の一カ月後。手紙の束が形見になった。兵役で外地にいた兄三人のうち、三番目の兄の信夫さん(九七年、七十五歳で死去)と苦難の戦後を生きた。 高校を卒業し、放射線影響研究所(南区)の前身である原爆傷害調査委員会(ABCC)で実験動物の世話をする職を得た。「米国の組織で働くなんて恥ずかしくないのか」との中傷もあった。両親に対し自信を持てる生き方とは、自分も家庭を築き、子を育てること。そう信じて九五年の定年まで働き抜いた。 「元気でやってますよ」。当時の疎開児たちはほぼ十年ごとに集まって専教寺を訪れ、近況を報告し合う。今年も十六人が五月の大型連休の一日を寺で過ごした。会の名は「すいばの会」。疎開暮らしを思い出させる、あの味を忘れまいとの決意を込めた。 専教寺の先代住職の妻である中野信乃さん(77)は当時、ここで疎開児たちと一緒に暮らした。被爆の惨状も、入市被爆者として知っている。そして同窓会のたびに、苦労話を交わしてきた。 信乃さんの孫、睦さん(22)は疎開児たちの戦後を知らない。でも息子が三歳になった今、子と引き裂かれた親の気持ちを思うことができる。 肌を刺す風にまだ冷たさが残る初夏。再び寺を訪れた坂口さんを信乃さんと睦さんが迎えた。対談の合間、睦さんは田んぼのあぜに生い茂るスイバを摘んできた。 |
【写真説明】同窓会の文集や家族からの手紙を広げ、信乃さん(左)と睦さん(右)に疎開中の体験を語る坂口さん (撮影・今田豊) |