|
小頭症 |
姉弟、一緒に生きてきた
|
原爆投下から七カ月たった一九四六年三月。小雪が舞い、いてつく夜だった。天満川右岸(広島市西区)のバラック小屋に、かすかに産声が響いた。 「起きて、起きて」。母のうめくような声で、当時十一歳だった姉は眠りから覚めた。差し出された両手に、へその緒がつながったままの赤ん坊。目を疑った。爆心地から約一キロの広瀬北町(中区)で被爆した母は、ずっと寝たきりだった。腹に膨らみは見られず、家族四人の誰一人として妊娠に気付いていなかったという。 姉は病弱な母を助け、闇米でむすびを作っては売り、再び米を買って一家を養った。学校には行けなかった。毎日、自宅と広島駅近くの闇市場を往復した。知的障害がある弟の面倒もみた。母と弟の将来が頭から離れず、「二人を置いたまま結婚できない」と心に決めた。二十歳で巡り合った夫のもとに「三人で嫁いだ」。 やがて、弟の発育不全の原因が原爆だと知る。妊娠初期に爆心地から近距離で放射線を浴びた胎児にみられる原爆小頭症だった。弟が成人する前年の六五年、患者と家族でつくる「きのこ会」に加わった。悩みを打ち明け、国に援護を求めた。 入会から四十年たつ。弟(59)は来春、還暦。同じ障害のある仲間たちと広島県北部のクリーニング店で働き、寮生活を送っている。広島市内で暮らす姉(71)の元に毎月一回、家族の墓参りを兼ねて顔を見せに戻る。 県立広島女子大(南区)の田中弘美さん(21)と盛脇由香さん(21)。これまで何度か、被爆体験に耳を傾けてきた。が、胎内で被爆した原爆小頭症患者の存在は知らなかった。弟の帰省に合わせ、市内のアパートに姉弟を訪ねた。 姉はためらった。「話したところで、理解してもらえるはずもない」。夫や子にも伝えていないつらい記憶…。近くの公園まで歩いて気持ちをほぐし、覚悟を決めた。アパートに戻り、弟を隣に座らせ、学生二人と向き合った。 バラック小屋から始まった弟の人生。その体験の代弁者として、淡々と語った。 |
【写真説明】原爆小頭症の弟(右端)と歩んだ59年の人生を、姉(左端)は盛脇さん(左から2人目)と田中さん(同3人目)に語った (撮影・山本誉) |