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孫よ |
封印しかけた手記渡す
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十年前、いったん書きかけた被爆手記を、タンスの奥にしまいこんだ。孫たちに伝えようとペンを執ったが、二世代も違う年齢差に、「本当に伝わるだろうか」と自信がなかったから。 時々取り出しては眺めた。そのたびに再び、しまいこんだ。広島市西区の西方美代子さん(74)。五年前、大病を患った。その後、相次ぎ生を受けたひ孫たちの愛らしいこと。「この子たちを、あんな目に遭わせるわけにはいかない」。そうして昨年末、便せん七枚を書き上げた。 郷里の広島県小国村(現世羅町)を離れ、可部線で車掌の仕事に就いた西方さんは、爆心地から一・八キロ離れた打越町(西区)の広島鉄道局三篠寮で、閃光(せんこう)を見た。 その瞬間に伏せた。何人かが覆いかぶさってきた。起き上がると一番上の人の背に、無数のガラス片が刺さっていた。屋外では、がれきに敷かれた男性が「助けてくれ」とうめき声を上げた。 芸備線とバスを乗り継ぎ郷里へと逃げた。十日に再び寮に戻ってみた。焼け野原だった。負傷者を担架から列車に乗せる作業を手伝ったりした。可部駅(安佐北区)で、山積みにされ、荼毘(だび)に付される犠牲者を見かけ、手を合わせた。 肉親を原爆に奪われたわけではない。だが、あの地獄絵を思い出したくはない。だから、これまで原爆忌の八月六日には一度も、平和記念公園(中区)を訪れたことはない。 今年三月末、西方さんが書き上げた手記は長女の加藤千恵子さん(53)=佐伯区=を介し、黒田美春さん(30)=東広島市=と、辻瑠美さん(27)=広島市佐伯区=の二人の孫のもとに届いた。 「読んだよ」「びっくりした」。孫二人はそう言いながら、祖母のもとに集まってきた。これまで面と向かって被爆の体験をじっくり聞いたことはない。でも、母に教えられて八月六日は必ず、爆心地の方角に手を合わせていた。 「もう話せん思うてね、それで書いたんじゃけえね」。三人が平和記念公園に向かったとき、西方さんがつぶやいた。そうして始まった祖母と孫の対話。ひ孫たちは無邪気に見つめている。 |
【写真説明】原爆慰霊碑と原爆ドームを望む平和記念公園で、右から孫の黒田さん、辻さんと語り合う西方さん (撮影・宮原滋) |