広島市南区の似島で、原爆死没者の遺骨が相次ぎ見つかっている。被爆五十九年。今になって掘り起こされる事実が、原爆被害の底知れぬ甚大さを物語る。茶褐色でもろくなった骨の姿が、世間に忘れられてきた歳月の長さを思い知らせてくれる。あの日の体験を、私たちはどう胸に刻み、次の世代に伝えればいいのか。夏のヒロシマを歩いた。
作業員がスコップで一掘りすると、長さ数センチ、大きいもので四十センチある骨が次々に姿を現した。骨の中を貫き、まとわりつく木の根がある。地中で上や横を向き、発掘を待つ何体もの頭蓋(ずがい)骨がある。五十九年間の眠りは、その骨も歯も茶褐色に変えていた。
原爆投下直後、約一万人もの負傷者が運ばれたとされる似島。火葬が間に合わなかったのか、この辺りでは折り重ねて埋葬されたらしい。作業員は慎重に骨を拾い上げる。それでも骨はもろく、はがれたりもする。
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発掘場所の近くで、線香に火を付け、手を合わせる地後さん
6月24日(撮影・福井宏史)
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「兄どこに」続く発掘 |
「何年もほっとかれて気の毒で…」。六月二十四日、地後敏範さん(69)=中区昭和町=が現場わきにしゃがみこんだ。数本の線香を地面に挿し、数珠を握り締めて手を合わせる。
兄雅章さんの行方は今も分からない。当時、旧制広島一中(現国泰寺高)の一年生だった。建物疎開作業に出かけたきり、帰ってこない。
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涙止まらぬ母 |
母きみえさん(93)は九日後の八月十五日、似島に運ばれたらしいと聞いて訪ねた。軍人から一枚の死亡診断書をもらっただけ。現在、市内の老人ホームで暮らす母は、地後さんから島での発掘作業の様子を聞くと「よう行ってくれた」と声を絞り出した。十三歳だった息子の面影を思い出すのか、涙はやまなかった。
同じ広島一中一年生だった池田昭夫さんは、三日後の八月九日に似島で亡くなったことが分かっている。十四歳だった。母ハルヨさんが島に駆けつけると、知り合いの軍医が変わり果てた息子を見つけてくれた。一時間前に息絶えていた。母は、軍医が切断してくれた右手の薬指を瓶に入れて持ち帰り、墓に納めたのだという。
今は亡き母に代わり、昭夫さんの弟の和之さん(69)=南区翠=が毎年の命日に島に向かう。今回の調査で最初に見つかった遺骨の慰霊式が六月三日、中区の平和記念公園の原爆供養塔前であったときも、和之さんは参列した。死没者の遺族は、ほかにだれもいなかった。「当時を記憶する人が減ってきた。寂しい。どうもできない自分が、じれったくもある」
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さびつく遺品 |
似島では一九七一年にも、今回の調査と隣り合う区域で、市が推定六百十七体分の遺骨と六十一点の遺品を発掘している。遺品から死没者七人の身元も判明した。
「赤茶けていたが、すぐに弟のバックルだとわかった」。林昭雄さん(76)=東広島市西条岡町=が三十三年前を振り返る。インディアンの絵柄が決め手だった。弟の治行さんは市立造船工業学校(現市商高)一年だった。
今回の調査でも学生ボタンやバックルなど二十八点の遺品が出ている。だが、多くはさびつく。出土した推定五十七体の遺骨の身元は、いまだ分からない。
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