四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面を追った。

「縮景園の8・6」
1:秘密部隊 |  2:被爆イチョウ |  3:遺族の思い |  4:石柱漂流 |  5:家元の祈り

 家元の祈り


   息絶えた人へ
   献茶で供養式

 
 「縮景園の戦前と戦後をつなげる役目を果たしてくれた」。茶道上田宗箇流家元の上田宗嗣さん(60)=広島市西区=は自宅で、一枚の古絵図を慎重に広げた。

 原爆で灰じんに帰した園が再び開園したのは一九五一年。近くの山から持ってきた木が植えられただけだった。正門や茶室など本格的な復旧はさらに十年後。大いに役立ったのが上田家に伝わる江戸後期の絵図だった。

 縮景園は、広島藩家老で茶人の上田宗箇によって造られた。宗箇から数えて十六代目の上田さんは「園内では今も亡くなった数多くの人の思いを感じる」と言う。上田さんもまた、父と祖父母を原爆で失っている。

 八七年に園内で六十四体の遺骨が発掘された。翌年、地元町内会の人や茶道愛好者たちが原爆犠牲者慰霊供養会をつくり、供養式を続けている。「水を求めて息絶えた人たちのために献茶をしています」と会長を務める上田さん。今年も八月一日に供養式は営まれる。 (おわり)

 
この連載の写真は宮原滋、文は江川裕介と河野揚が担当しました。


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