広島市の秋葉忠利市長は六日の平和宣言で、日本政府に対し米国の誤った政策には「ノー」と言おうと訴える。その誤った政策の原点が広島、長崎への原爆投下と言えよう。日本政府は交戦中の一九四五年八月十日、スイス政府を通じて米国政府に抗議文を提出したことはあるが、戦後は一度も抗議していない。原爆投下について「しょうがない」と発言した久間章生前防衛相の辞任問題に関連してあらためて対応を問われたが、今後も抗議する意思はないという。原爆の日に当たり、たった一度の抗議の意義をあらためて考えてみた。
抗議文を提出した日は、二発目の原爆が長崎に投下された翌日。当時は「原子爆弾」ではなく「新型爆弾」という表現を使っている。
抗議文は、原爆の使用が「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ陸戦条約)付属書陸戦の法規慣例に関する規則」第二二条と第二三条(ホ)号に反しているとする。同条約は一八九九年の第一回ハーグ平和会議で採択され、百年前の一九〇七年に改定された。交戦者の定義や戦闘員・非戦闘員の区別、使用してはならない戦術など戦争の基本的ルールを定めている。
これらの条項に違反する具体的事実として、抗議文は広島への原爆投下で一瞬にして多数の市民が殺傷され、市街地が壊滅的打撃を受けたことを指摘し、被害の無差別性、残虐性を強調する。
さらに原爆は、当時既に使用を禁止されていた毒ガスなどの兵器を凌駕(りょうが)していると主張。「全人類および文明の名において米国政府を糾弾」し、即時に非人道的兵器の使用を放棄するよう要求して締めくくる。
六十二年前の抗議文について、「交戦状態にある中、原爆被害の恐ろしさ、無差別性なども書き込み、ハーグ陸戦条約違反を根拠にした主張は国際人道法の法理に立っている」と言うのは早稲田大法学部の水島朝穂教授(憲法学、法政策論)。「法的拘束力のない一方的通告だが、内容は普遍性があり道義的拘束力を持つ」と指摘する。
久間発言の直後に鈴木宗男衆院議員が政府に質問主意書を提出し、原爆投下に対する対応をただした。それに対し、安倍晋三首相は答弁書(七月十日)で「現時点において米国に対し抗議を行うよりも、核兵器が将来二度と使用されることがないよう、現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要であると考える」とし、抗議する意思のないことを明らかにしている。
米国では下院本会議が七月三十日、従軍慰安婦問題で日本政府に公式謝罪を求める決議を採択した。その際、米国の議員から「真の友人だからこそ過ちを指摘するのだ」といった声が出た。
原爆投下について米国政府はこれまで、本土決戦で失われるはずだった多くの兵士を救ったなどとして正当化を繰り返し、謝罪したことはない。真の友人であるならば、日本政府が米国の過ちを指摘してもいいのではないか。非難の応酬のためではなく、歴史認識の違いについて議論を深め、核戦争の脅威から人類を救い出すために。(編集委員・籔井和夫)
※抗議文要旨※
米国は6日、広島市に新型爆弾を投下し瞬時に多数の市民を殺傷し、市の大半を潰滅(かいめつ)させた。
トルーマン米大統領は声明で、船渠(せんきょ)、工場、交通施設を破壊すると言うが、この爆弾は空中でさく裂し極めて広い範囲に破壊的効力を及ぼす。攻撃の効果を特定目標に限定することは技術的に不可能なことは明瞭(めいりょう)で、こうした爆弾の性能については米国側も知っている。
被害地域は広範囲にわたり、交戦者、非交戦者の別なく、男女老幼を問はず爆風と輻射(ふくしゃ)熱で無差別に殺傷され、被害範囲も甚大なだけでなく、個々の傷害状況はこれまでになく残虐だ。
交戦者は害敵手段の選択について無制限の権利を持っておらず、不必要な苦痛を与える兵器、投射物その他の物質を使用してはならないことは戦時国際法の根本原則で、ハーグ陸戦条約付属書陸戦の法規慣例に関する規則第22条と第23条(ホ)号に定められている。
米国が今回使用した爆弾は無差別かつ残虐性において、こうした性能を持つために使用を禁止された毒ガスその他の兵器をはるかに凌駕(りょうが)している。従来のいかなる兵器、投射物に比べても及ばない無差別性、残虐性を持つ新たな爆弾の使用は、人類文化に対する罪悪である。帝国政府は自(みず)からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾するとともに即時にこうした非人道的兵器の使用を放棄することを厳重に要求する。
※ハーグ陸戦条約付属書 陸戦の法規慣例に関する規則
第22条(兵器の制限) 交戦者は害敵手段(兵器)の選択について無制限の権利を持っているわけではない。
第23条(禁止事項) 特別の条約で禁止するほか、特に禁止するのは次の通り。
(ホ)不必要の苦痛を与える兵器、投射物その他の物質を使用すること(※表現は現代文に改めた)
【写真説明】「新型爆弾」投下に対する日本政府の抗議を伝える1945年8月12日付の中国新聞
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