原爆に奪われた家族を静かにしのぶ人がいる。平和への願いを短歌に託す人がいる。広島県五日市町皆賀(現広島市佐伯区)にあった広島戦災児育成所にいた人たちが、それぞれの「8・6」を過ごした。人生を一変させた原爆のむごたらしさを憎む日は、六十二年かけて再生してきた絆(きずな)の強さをかみしめる日―。
▽家族への思い背中で語る
平和記念式典が終わった午前九時すぎ。平和記念公園(広島市中区)にある原爆供養塔に、線香の煙が漂う。そっと手を合わせる三人がいた。
原爆で母を失った増村渉さん(65)=大阪府大東市=はこの十数年間、妻百合子さん(58)との八月六日の被爆地訪問を欠かさない。
「育成所の子はみんな白いシャツを着て、姿勢を正したもんです」。幼少の日々、「8・6」には仲間たちや職員と供養塔を訪れた。
増村さんは五十歳を過ぎるまで、育成所で育ったことや被爆体験を妻にも明かさなかった。「恥ずかしかった」と小さくつぶやく。
だが、育成所を巣立った人たちが一九九四年に営んだ五十回忌法要を機に、気持ちが変わった。
胃がんと大腸がんを患う身を押して、広島に向かう。「やはり、素直な気持ちで母の霊前に手を合わせたい。育成所のみんなにも会いたい」。友人と再会し、近況を尋ねる。
今年は元農協職員の下口輝明さん(71)=広島市安佐北区=を誘った。
法要の世話人を務めた下口さんが、八月六日に供養塔を訪れるのは十数年ぶり。「人でごった返す式典の雰囲気は、あまり好きじゃない」。三人は裏道を通って供養塔に向かう。
育成所時代も静かな供養塔の前が落ち着いた。「亡くなった人を静かに悼む雰囲気が昔と変わらずある」。百合子さんが用意した青いリンドウの花。三人で手向けた。
増村さんは、東観音町(現西区)で原爆の閃光(せんこう)を浴びた。下口さんは広島県北の疎開先で、閃光を遠く目にしたという。その瞬間に、二人の人生は変わった。家族を奪われた。
六十二年。それぞれに孫も生まれた。「じっと手を合わせる姿を、せめて自分の家族は忘れないでほしい。大切なことだから」。決して雄弁でない男性二人。静かに祈る背中を百合子さんが見守っている。(石川昌義)
【写真説明】「手を合わせれば穏やかになる」。供養塔前で育成所時代の思い出を振り返る下口さん(左)と増村さん(中)を百合子さんが見守る(撮影・坂田一浩)
    
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