核兵器は、原子核が反応する際に放出するエネルギーを、人を殺傷し、 物を破壊することに利用した大量破壊兵器です。
破壊力は絶大で、在来の爆薬を使った兵器と比べると、広島に投下され た最初の原子爆弾でも、ウラン(U)-235の12.5キロ(ソフトボールくらい の大きさ)で、TNT火薬に換算して二万トンにも相当。つまり普通の大砲 から発射される爆弾の百万倍以上もある兵器なのです。
原子物理学の分野で理論研究が最初に進んでいたのはドイツでした。し かし専門家の多くはユダヤ系で、その学者たちは1930年代後半、ナチスド イツによって国外に追放されました。
イギリスは第二次世界大戦中の1940年に、原子爆弾の開発が可能だと知 りましたが、ドイツが先にこの兵器を手にすれば破滅的な結果になると考 え、米国に積極的に情報を提供して共同開発の道を選びました。
米国では、ヨーロッパから亡命した学者らが同じようにドイツに先がけ た原子兵器の開発をルーズベルト大統領に勧告。米国の政府と陸軍がこれ に応じて科学者を組織し、持てる経済力と工業力を動員して、新兵器開発 に乗り出しました。それが「マンハッタン計画」です。
マンハッタン計画
原子エネルギーを使った新兵器開発、マンハッタン計画は1942年に始ま りました。米国政府と原子物理学者、産業界、軍当局が一体になった秘密 開発計画は着々と進み、1944年秋には航空機による原爆投下を任務とする 部隊が編成されました。1945年 5月にドイツは降伏、日本も原子兵器の早 期開発を断念しました。
しかし米国は原子爆弾を完成させ、戦後世界での米国の主導権を決定づ けるために使おうと考えます。三発の原子爆弾が作られ、 7月16日に最初 の一発をニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で実験に使い、残る二発を 広島と長崎の実戦に使用したのです。
結果は米国の意図した通りでした。トルーマン大統領は「今から十六時 間前、アメリカ空軍機は日本の最重要基地広島に爆弾一発を投下した」と 世界に向け声明しました。日本との戦争の勝利を確定し、米国の国際的地 位を高める一撃でした。続いて長崎に三発目を投下、米国はその後の「核 時代」の扉を開いたのです。
| 【1939年】 | |
|---|---|
| 1・26 | デンマークの物理学者ニールス・ボーア博士がワシントンの学会で核分裂発見 を発表 |
| 3・ 3 | 米コロンビア大学でエンリコ・フェルミ(イタリアから亡命した科学者)、レ オ・シラード、ウォルター・ジン(ハンガリーの物理学者)の各氏らが核分裂 実証実験に成功 |
| 8・ 2 | シラード氏が起草した米大統領にウラン研究推進を勧告する書簡に、アルバー ト・アインシュタイン博士が署名。ドイツがウランを使って新エネルギーを開発 する恐れも指摘。 |
| 【1940年】 | |
| 6・27 | バネバー・ブッシュ氏を委員長に米国防調査委員会(NDRC)が発足。 |
| 【1941年】 | |
| 4・− | 日本陸軍空港技術研究所長の安田武雄中将が大河内正敏博士(理化学研究所長) に「原爆の研究」を依頼 |
| 10・11 | ルーズベルト大統領、原爆開発の英米協力をチャーチル英首相に提案 |
| 11・28 | 米政府が原子力研究をNDRCから科学研究開発局(OSRD)に移し、原爆課を創設 。 研究件数16、総費用30万ドル |
| 【1942年】 | |
| 1・− | コロンビア、プリンストン両大学の核研究グループをシカゴ大学に移し、「冶 金研究所」(アーサー・コンプトン所長)を開設。プルトニウム研究と実験用 原子炉建設に着手 |
| 8・13 | 原爆を製造するマンハッタン計画が始まる。本部はワシントンの陸軍省。 9月、 レスリー・グローブス少将を総責任者に任命 |
| 9・23 | 原爆製造に関する軍事政策委員会(MPC) 発足 |
| 11・− | ニューメキシコ州ロスアラモスに原子兵器研究所の敷地を買う |
| 12・ 2 | エンリコ・フェルミ博士が核分裂連鎖反応実験に成功。世界で初の「原子の 火」。 |
| 【1943年】 | |
| 理化学研究所の大河内正敏博士からの「原爆の研究」依頼に対し、仁科芳雄博士の 研究室が「可能」とする報告書。研究始まる |
|
| 1・− | テネシー州オークリッジでウラン分離工場(クリントン工場)の建設が始まる |
| 3・15 | 原子物理学者ロバート・オッペンハイマー博士、ロスアラモス原子兵器研究所 長に着任 |
| 4・ 6 | ワシントン州ハンフォード工場建設始まる |
| 8・− | 英国の原子力科学者が原爆を共同で開発するため米国に移住 |
| 11・ 4 | クリントン工場の原子炉操作開始 |
| 【1944年】 | |
| 2・20 | ドイツが原爆開発を断念 |
| 3・12 | 仁科研究室でウラン235 の分離筒が完成 |
| 8・26 | ニールス・ボーア博士がルーズベルト大統領に会い、原子力の国際管理を提案 |
| 9・ 1 | ポール・チベッツ陸軍中佐が原爆投下のための飛行隊「第五〇九混成部隊(B 29爆撃機14機、将校・下士官合わせて1767人)」の隊長に任命される。12月に 編成を終え、ユタ州の砂漠にあるウェンドバー基地で訓練開始 |
| 【1945年】 | |
| 4・12 | ルーズベルト大統領死去。ハリー・トルーマン副大統領が大統領に就任 |
| 4・13 | 東京空襲で理化学研究所がウラン分離筒とともに焼失。 5月、陸軍が研究継続 を断念 |
| 4・25 | スチムソン長官とグローブス少将が4カ月以内に原爆完成とトルーマン大統領 に報告 |
| 5・18 | 第五〇九混成部隊がテニアン島へ移動開始 |
| 5・28 | シラード氏らがバーンズ国務長官に会い、原爆の日本への使用に反対を表明 |
| 7・16 | ニューメキシコ州アラモゴードで初のプルトニウムを使った原子爆弾実験が 「成功」 |
| 7・17 | シカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトン所長が、研究所の学者67人が署 名した日本への原爆使用に反対する請願書をジョージ・ハリソン陸軍長官顧問 に提出 |
| 7・22 | 原爆投下の目標選定委員会が、広島、小倉、新潟、長崎を目標都市に選ぶ。京 都はスチムソン長官の反対で外される |
| 7・24 | ポツダムで、トルーマン大統領がソ連のスターリン首相に新型爆弾の開発成功 と日本への使用を伝える |
| 7・25 | 参謀本部のトーマス・ハンディー作戦部長が戦略空軍司令官のカール・スパ ーツ大将に、 8月 1日以降、原爆を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに目 視投下するよう命令 |
| 8・ 1 | 広島に投下するウラン型原子爆弾「リトルボーイ」の組み立て完了。新潟は 都市規模が小さく遠いため投下目標から除く。攻撃部隊は7機編成。B29爆撃 機3機が先行して広島、小倉、長崎の上空で待機、気象状況を原爆投下機エノ ラ・ゲイのチベッツ機長とグアム、テニアンの両司令部に報告。2機はエノラ ・ゲイを援護、うち1機は爆発測定器、もう1機はカメラを搭載。残る1機は エノラ・ゲイの代替機として硫黄島で待機。 |
| 8・ 6 | 日本時間 8月 6日午前1時37分、気象観測機3機がテニアン基地を離陸。午前 2時45分、原爆を積んだエノラ・ゲイ発進。作戦を終え基地に帰ったのは午後 2時58分だった |
日本全土への都市爆撃第二次世界大戦末期、日本はもう、自国の上空に米軍の爆撃機が 飛来するのを防ぐ力がなくなっていました。米国は太平洋の島を基 地にB29爆撃機による爆撃を行いました。1945年3月9日深夜から10日にかけて東京は大規模な爆撃を受け ました。「東京大空襲」です。下町を中心に市街地は火の海となり 約12万人もの死者が出たとされています。8月15日の敗戦の日まで 続いた全国の都市への爆撃に主に使われたのは「焼夷弾(しょうい だん)」と呼ばれる爆弾でした。軍事施設よりも、木造の家が多か った市街地が大きな被害を受け、多数の非戦闘員(軍人ではない一 般の人)が犠牲になりました。 人々はこれを「本土空襲」と呼び、空襲時の逃げ場所として「防 空壕(ごう)」が町々につくられましたが、国民の犠牲は日を追っ て増すばかりでした。
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テニアンから広島へ
原子爆弾を積んだB29爆撃機エノラ・ゲイが発進した基地は西太平洋マリアナ
諸島のテニアン島にありました。重巡洋艦インディアナポリスでテニアン島へ運
ばれた原子爆弾は、1945年8月5日、エノラ・ゲイに積み込まれました。乗員12人
。爆弾取り付け主任だった副操縦士の航空日誌(記載の時刻はテニアン時刻で、日
本時間とは1時間のずれがある)によると、6日未明の発進から投下まで、広島へ
の飛行は約7時間―。
| 午前2時45分 | 離陸 |
| 3時 | 最終起爆装置取り付けに着手 |
| 3時15分 | 起爆装置取り付けを完了 |
| 6時5分 | 硫黄島上空から日本へ向かう |
| 7時30分 | 赤プラグを挿入 |
| 7時41分 | 上昇開始 気象状況受信―第1、第3目標の上空は良好。
第2目標上空は不良 |
| 8時38分 | 高度32,700フィート(約 9,970メートル)で水平飛行に移る。 |
| 8時47分 | 電子信管テスト、結果良好 |
| 9時4分 | 進路西 |
| 9時9分 | 目標広島視界に入る |
| 9時15分30秒(日本時間8時15分30秒) | 投下 |
高度31,600フィート(約 9,600メートル)で、乗員が目で見ながら原子爆弾を 投下したエノラ・ゲイは、すぐ右 158度の急旋回をして北上、山陰地方上空 へ向け離脱。ウランを使った爆弾は米国の期待通りに働き、広島では大被害 が起きました。そして3日後、長崎にプルトニウムを使ったもう一つの爆弾 が投下されたのです。