原爆の記憶 新たな断片 '99.6.13


 本紙掲載のヒロシマ写真 
 復員者への伝言 

「立て札に兄貴の名が・・・」

南方の海で戦死 家族名乗り出る

行く先も
知らずいきけむ
魔の海に
若く果てにし
吾子よかなしき
シズコ
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右下=広島市富士見町(現中区宝町)の本田さんの家跡に立てられた長男にあてた伝言(円内は本田之昭さん)
 八日付本紙朝刊で紹介した米国人カメラマン秘蔵のヒロシマ写真のうち、「復員者への伝言」の関係家族が十二日、中国新聞社への連絡で分かった。「復員者 本田之昭ニ告(グ) 家族一同 江波 町(…)」の立て札に記された之昭さんは、家族と再会することなく南方の海で戦死。撮影場所は、本田さん家族が住んでいた広島市富士見町(現中区宝町)の家跡だったことが判明した。

 「あぁ、兄貴だ」。新聞を広げた二男の無職本田文男さん(68)= 広島県安芸郡府中町柳ケ丘=と、三男の会社員実さん(65)=廿日市市佐方三丁目=は、写真にくっきりと残る長兄の名前を見つけ、思わず叫んでいた。「本当に信じられません。父が立て札を残していたことも知らなかったのですから・・・」。実さんの自宅で二人は、一様に驚きを口にした。

 本田さんの一家は父母と兄弟五人の七人家族で、父親の亮作さんは江波国民学校(現江波小学校・中区)の校長だった。第二次大戦も末期にさしかかった一九四四(昭和十九)年十二月、長男の之昭さん(当時二十二歳)は、広島駅から戦線に旅だった。

 「駅で見送った母は『冬なのに夏服を着ていた。きっと南方へでも送られたんだろう』とよく言ってました」と文男さん。

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長兄の関連写真が掲載された中国新聞を広げ、被爆当時を振り返る本田実さん(左)と文男さん(廿日市市佐方3丁目)
 長男の消息も知れぬまま一家は原爆投下の日を迎えた。亮作さんら家族四人は、勤務先の学校や自宅、学徒動員先でそれぞれ被爆。 縁故疎開していた実さんと四男だけは被爆を免れた。

 文男さんらによると、被爆後江波の父親の元に集まった母親と子ども三人は、数日後に父親と別れ、弟たちがいる広島県高田郡吉田町へ疎開した。「復員者・・・」の立て札はその後、亮作さんが立てたらしく、四六年三月に広島入りした写真所有者の故ハーバート・スッサンさんら米戦略爆撃調査団によって撮影された。

 「生きて帰ってほしい」―その立て札に込めた父親の願いもむな しく、四八年十月、戦死公報が届いた。之昭さんは四四年十二月五 日、台湾とフィリピン・ルソン島の間にあるバシー海峡で船が「海没」し、「戦死せられた」とあった。

 「その時初めて涙を見せた」(文男さん)亮作さんは五七年、五 十九歳で病死。晩年になり、短歌に息子への思いを刻んだシズコさんも八四年、八十三歳で他界した。

 「半世紀以上がたち、自分たちでさえ記憶が薄れかけていたことが、この写真を通じて一気によみがえりました。失った子への父母の思いや戦争の悲惨、平和の尊さをあらためてかみしめています 」。文男さんと実さんはこもごもに言った。



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