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'99.6.13 |
「立て札に兄貴の名が・・・」 南方の海で戦死 家族名乗り出る
「あぁ、兄貴だ」。新聞を広げた二男の無職本田文男さん(68)= 広島県安芸郡府中町柳ケ丘=と、三男の会社員実さん(65)=廿日市市佐方三丁目=は、写真にくっきりと残る長兄の名前を見つけ、思わず叫んでいた。「本当に信じられません。父が立て札を残していたことも知らなかったのですから・・・」。実さんの自宅で二人は、一様に驚きを口にした。 本田さんの一家は父母と兄弟五人の七人家族で、父親の亮作さんは江波国民学校(現江波小学校・中区)の校長だった。第二次大戦も末期にさしかかった一九四四(昭和十九)年十二月、長男の之昭さん(当時二十二歳)は、広島駅から戦線に旅だった。 「駅で見送った母は『冬なのに夏服を着ていた。きっと南方へでも送られたんだろう』とよく言ってました」と文男さん。
文男さんらによると、被爆後江波の父親の元に集まった母親と子ども三人は、数日後に父親と別れ、弟たちがいる広島県高田郡吉田町へ疎開した。「復員者・・・」の立て札はその後、亮作さんが立てたらしく、四六年三月に広島入りした写真所有者の故ハーバート・スッサンさんら米戦略爆撃調査団によって撮影された。 「生きて帰ってほしい」―その立て札に込めた父親の願いもむな しく、四八年十月、戦死公報が届いた。之昭さんは四四年十二月五 日、台湾とフィリピン・ルソン島の間にあるバシー海峡で船が「海没」し、「戦死せられた」とあった。 「その時初めて涙を見せた」(文男さん)亮作さんは五七年、五 十九歳で病死。晩年になり、短歌に息子への思いを刻んだシズコさんも八四年、八十三歳で他界した。 「半世紀以上がたち、自分たちでさえ記憶が薄れかけていたことが、この写真を通じて一気によみがえりました。失った子への父母の思いや戦争の悲惨、平和の尊さをあらためてかみしめています 」。文男さんと実さんはこもごもに言った。
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