一面に広がる廃虚、すさまじい熱線のあとを示すケロイド、半年以上たってなお人の命を奪い続ける放射線後障害・・・。
「当時の悲惨な光景が昨日のことのようによみがえってくる」。一九八三(昭和五十八)年十二月、三十七年ぶりに被爆地広島を訪れ、ケロイドの残る被爆者らをカメラに収めた広島逓信病院(中区東白島町)の屋上に立ったハーバート・スッサンさんは言った。
「一階は外来患者がいっぱいで撮影できなかった。被爆者にこの屋上に上がってもらって・・・」「よく覚えていますよ、撮られた時のつらかったことを」―スッサンさんに同行した被爆者の一人がこたえた。
米戦略爆撃調査団のチーフカメラマンだった。焦土と化した日本各地を巡り、当時としては珍しいカラーフィルムで爆撃の効果を収めた。だが、四六年二月に長崎、三月に広島に足を踏み入れたスッサンさんは、あまりの破壊のすさまじさと、なお続く被爆者の苦しみに接し「人生観が変わった」と言う。
「自分は軍人だったけど、二度とこのようなことがあってはならないとの思いで撮影した」。スッサンさんは自分の思いを被爆者に打ち明けた。その年の暮れに除隊後、テレビプロデューサーとして働きながら、軍事機密として政府管理下に置かれたフィルムの公開を求め続けたのも「核戦争のむごさ、愚かさを伝えたい」との一心からだった。
「私もヒバクシャです」。リンパ節がんや脳腫瘍(しゅよう)の手術で三年間入院生活を続けたスッサンさん。取材でその場に居合わせた私は、スッサンさんの動作や口調がゆっくりとしている理由をその時知った。
「死ぬ前にもう一度、広島、長崎を訪ねたかった」。自分が撮影した被爆者との再会を果たしたスッサンさんは、両市再訪を機に被爆地での体験や、フィルムの公開を政府に求め続けた思いなどを書き残す計画だった。
だが、それから二年足らず。病魔はスッサンさんの体力を奪い、夢を果たせぬまま六十三歳で他界した。 「自分もヒバクシャだと言い続けた父。ヒロシマのために写真を公開するのなら、喜んでくれると思います」。父の死後、これまでに四度広島を訪ねたことのある長女レスリーさん(46)の思いである。
(田城 明)
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