'99.6.8    


原爆の記憶 新たな断片

米国人カメラマン 秘蔵の写真を公開


人生観変えた惨劇

 一面に広がる廃虚、すさまじい熱線のあとを示すケロイド、半年以上たってなお人の命を奪い続ける放射線後障害・・・。

 「当時の悲惨な光景が昨日のことのようによみがえってくる」。一九八三(昭和五十八)年十二月、三十七年ぶりに被爆地広島を訪れ、ケロイドの残る被爆者らをカメラに収めた広島逓信病院(中区東白島町)の屋上に立ったハーバート・スッサンさんは言った。

 「一階は外来患者がいっぱいで撮影できなかった。被爆者にこの屋上に上がってもらって・・・」「よく覚えていますよ、撮られた時のつらかったことを」―スッサンさんに同行した被爆者の一人がこたえた。

 米戦略爆撃調査団のチーフカメラマンだった。焦土と化した日本各地を巡り、当時としては珍しいカラーフィルムで爆撃の効果を収めた。だが、四六年二月に長崎、三月に広島に足を踏み入れたスッサンさんは、あまりの破壊のすさまじさと、なお続く被爆者の苦しみに接し「人生観が変わった」と言う。

 「自分は軍人だったけど、二度とこのようなことがあってはならないとの思いで撮影した」。スッサンさんは自分の思いを被爆者に打ち明けた。その年の暮れに除隊後、テレビプロデューサーとして働きながら、軍事機密として政府管理下に置かれたフィルムの公開を求め続けたのも「核戦争のむごさ、愚かさを伝えたい」との一心からだった。

 「私もヒバクシャです」。リンパ節がんや脳腫瘍(しゅよう)の手術で三年間入院生活を続けたスッサンさん。取材でその場に居合わせた私は、スッサンさんの動作や口調がゆっくりとしている理由をその時知った。

 「死ぬ前にもう一度、広島、長崎を訪ねたかった」。自分が撮影した被爆者との再会を果たしたスッサンさんは、両市再訪を機に被爆地での体験や、フィルムの公開を政府に求め続けた思いなどを書き残す計画だった。

 だが、それから二年足らず。病魔はスッサンさんの体力を奪い、夢を果たせぬまま六十三歳で他界した。 「自分もヒバクシャだと言い続けた父。ヒロシマのために写真を公開するのなら、喜んでくれると思います」。父の死後、これまでに四度広島を訪ねたことのある長女レスリーさん(46)の思いである。

田城 明

米カメラマン秘蔵「原爆半年後の本通」写真の子どもは私たち('99.6.16)
本紙掲載のヒロシマ写真 復員者への伝言('99.6.13)
米爆撃調査団カメラマン遺族 秘蔵写真を公開(一面)('99.6.8)

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復員者への伝言

 「復員者 本田之昭ニ告(グ) 家族一同 江波町(・・・)」の立て札の前にぽつねんと立つ少年。之昭さんは無事復員し、家族と再会できたのだろうか・・・(場所不明)
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広島逓信病院(中区東白島町)へ治療に通う被爆者。原爆投下から半年以上たっても、病院内には外来患者があふれていた
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浅野忠吉の墓

 爆心の位置や爆風の威力を知るために多くの墓石が撮られた。中央の大きな墓石は、妙頂寺境内(中区十日市町1丁目)にあった浅野家の家老で初代三原城主、浅野忠吉の墓。吹き飛んだ五輪塔を復元し、今も同寺境内の片隅に残る

旧広島文理科大学(現広島大学本部跡地・中区東千田町)辺りから北側を望む。ほぼ中央に、1955年ごろまであった富士見橋(中区富士見町)と福屋(中区胡町)の方へ延びた平田屋川(現じぞう通り)がくっきりと見える
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上の写真とほぼ同じ方向に向かい空撮した現在の街並み
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広島逓信病院を訪れたハーバート・スッサンさん。屋上に上がると、手すりにもたれ被爆当時を思い起こすかのように、じっと一点を見つめ続けた。隣の女性は通訳(1983年12月3日)

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全日空ホテル(中区中町)の前に残る愛宕池跡。池にかかる石橋は、表面に被爆のあかしを残し現在も使われている
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熱線の跡

 爆心地から南へ約900メートル、左側から熱線を受け、欄干の影が白線を引いたように残った万代橋。中区加古町から大手町4丁目に向け、橋のほぼ全景をとらえたカットはこれまで見つかっていない
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白神社(中区中町)や旧国泰寺(同)手前から西北を望む。手前の池は国泰寺の敷地内にあった愛宕池。鳥居をくぐり、石橋を渡ったところに愛宕社があった。写真右方の倒れた観音像や立ったままの石塔(赤穂義士追遠塔)は、1978年に西区己斐上3丁目に移った国泰寺境内に今も残る

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「顔や体にやけどを受けた人々の姿は、核時代のむごいきずである。(略)。ある人は明るい色の着物やゆったりとした服、あるいは原爆さく裂時の位置によって部分的に守られた。だが、状況のいかんにかかわらず、だれもがショッキングな原爆のきずあとを背負わなければならない」(写真集から)

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