原爆の記憶 新たな断片 '99.6.16


米カメラマン秘蔵「被爆半年後の本通」

写真の子どもは私たち

「半世紀の空白埋まった」 広島の佐々木さんら名乗り

 「下村時計店前を歩いている写真の子どもは、私と妹と弟です」―八日付本紙朝刊に特集した米国人カメラマン秘蔵のヒロシマ写真のうち、一面に掲載した時計台が傾いた下村時計店(広島市中区本通)前を歩く子どもたち三人の身元が十五日、本人からの中国新聞社への連絡で分かった。十二日に関係家族が判明した「復員者への伝言」写真に続き、関係者の証言は二例目となる。

うれしかった新調のげた・母手作りの服・・・

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掲載紙や被爆前後の古いアルバムを広げ、当時の思い出を語り合う長男の山本博司さん(左)と長女の佐々木満里子さん(広島市中区西川口町)
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二女の松沼雅子さん
 がれきが片づけられた本通を手をつないで歩いているのは、父親が元中国新聞社員で、昨年八十六歳で亡くなった山本儀江さんの子どもたち三人。中央が長女で、現在は主婦の佐々木満里子さん(62)=広島市中区西川口町=、左が二女で専門学校長の松沼雅子さん(58)=川崎市多摩区登戸=、右が長男で会社役員の山本博司さん(55)=広島市中区江波西二丁目。

 写真所有者の故ハーバート・スッサンら米戦略爆撃調査団が三人を撮影したのは、被爆からほぼ七カ月後の一九四六(昭和二十一)年三月以降で、当時満里子さんは小学二年の八歳、雅子さん五歳、博司さんは二歳だった。

 「この時の写真かどうか分からないけど『ガイジンさんに写真を撮られた』と父に言ったことがあるのを、今でも覚えています」。満里子さんは自宅で、博司さんと一緒に掲載紙を見つめながら言った。

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下村時計店前を手をつないで歩く左から二女の雅子さん、長女の満里子さん、長男の博司さん
 戦時中、満里子さんたちの一家は下村時計店からほぼ東へ五十メ ートル余の鉄砲屋町(現本通)に住んでいた。しかし、強制家屋疎開で爆心地から約一・三キロの西区東観音町に移住。その家で母の嘉重さん(85)と弟妹、祖母、伯母の五人が被爆。自身は近くの観音国民学校(現観音小学校)の校舎内、兵役に就いていた父も西区天満町の路上で原爆に遭った。

 「父と祖母がひどいやけどを負ったけど、みんな助かった。戦後は元の家跡にバラックを建てるまであちこちに身を寄せましたが、写真を撮られた時は、家のすぐそばにあったキリンビヤホール(現パルコ)の地下に住んでいました」と満里子さんは振り返る。

 彼女の記憶では、長い間履物がなくて、はだしで暮らしていた。撮影された時は、どこかでげたをもらったか買ってもらった時で「うれしくて、からんころんとげたを鳴らしながら本通を歩いていたんだと思います」。掲載の知らせに驚く雅子さんも「姉と私 はいつも、母が作ってくれた同じ服を着ていました。弟も小さい時は着物が好きで・・・」と、電話で思い出を口にした。

 これまで満里子さんは、「被爆の惨状はどのようにしても伝えきれない」と、家族にすらほとんど体験を語ってこなかった。名乗り出たのは、会社役員の夫や中学教諭の長男の勧めからだという。

 「被爆二世の息子が、写真が掲載された新聞を学校で使って平和教育に役立てたいと言い出しました。半世紀以上たって出会った自分たちの写真が、ヒロシマの体験継承の一助になればと願っています」。満里子さんはそう控えめに言った。

 十二日に関係家族が判明した「復員者への伝言」写真に続き、関係者の証言は二例目となる。



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