石井 義治(12)
広島市打越町(西区)▼広瀬小▼8月8日▼父功が勤めている安佐郡祗園町の三菱重工業第20製作所にいたのを7日、父が見つける。小学3年だった弟數美は「兄は『お父ちゃんがいるから、連れて行ってと兵隊さんの足にしがみついたんよ』と話し、父が持参していたトマトを渡すと『もったいないから売りんちゃい。米国は恐ろしいよ』と言ったそうです」。死亡は8日午前11時半。学校の先生になるのを夢見ていたという。
石浜 正明(12)
二中寮。実家は安芸郡倉橋島村(倉橋町)▼大向小▼8月8日▼
父仙助と母ヒチが8日、寮の前で見つける。母が空き缶を拾い、水を飲ませると、一口飲んで死去。一緒に育った義姉ツユ子は「実家で預かった学校の理科教材の荷物疎開で7月末に帰省した際、母が『このまま家におりなさい』と言ったそうですが、夏休みになるまでは広島にいると帰っていきました」と言う。
入澤 宏(12)
安佐郡八木村(安佐南区)に下宿。実家は山県郡都谷村(豊平
町)▼琴谷小▼8月6日▼安佐郡大林村(安佐北区)の救護所で亡
くなっているのを8日、都谷村からの救援隊員が見つけ、遺骨を母薫子に届ける。93歳になる母に代わって、陸軍被服支廠に動員されていた広島高師付属中4年の兄卓は「市内は危ないからと6月に二中の寮を出て、兄弟で下宿していました。原爆投下の前夜に実家から届いたモモを一緒に食べたのが最後の語らいでした」。
岩崎 全孝(まさたか)(13)
安佐郡祗園町長束(安佐南区)▼千葉県市川市・八幡小▼8月8日▼母徳恵が7日、横川町の市信用組合本部前で見つけ、北部方面へ戻るトラックに乗せる。91歳になる母は「うわ言を繰り返していた息子が、近所の医者の『もう駄目です』との言葉に、正気に返って『もう僕は駄目なのか…』と言いました。何と声を掛けていいのか分からなくなりました」。翌午前10時ごろ、最期に「ありがとう」と言って死去。航空機部品の工場長だった父を残し、母子6人で母の実家に疎開していた。
岩本 耕造(13) 遺品と資料
広島市楠木町(西区)の叔父宅。実家は佐伯郡浅原村(佐伯町)
▼四和小▼8月7日▼本川土手で7日、捜しに来た3学級の江川正巳の母に「僕は岩本耕造です。立ち上がれます」と言って棒切れにつかまろうとしたのを、父庄平と母イチヨが聞いて向かうが、遺骨は不明。小学4年だった妹由子は「母に『閣下と呼ばれるような偉い人になって、東京見物をさせてあげる』と胸を張った兄の笑顔が忘れられません」▼下宿していた叔父の森田義登(45)は、東洋製罐(西区天満町)へ出勤途中に被爆し、10日死去。
江川 正巳(13)
広島市段原日出町(南区)▼比治山小▼8月6日▼小学4年の妹咲子が学童疎開していた佐伯郡浅原村(佐伯町)を泊まりがけで訪ね、戻る途中の己斐町で被爆した母ツ子(ね)が捜すが、遺骨は不明。妹は「遊んでいる時もポケットにメモを入れて勉強していたほどの努力家でした。長男だっただけに、両親の期待は大きかったと思います」。
大内 俊(14)
広島市舟入南3丁目(中区)▼舟入小▼8月7日▼父義直らが新
大橋そばの河原にいるのを聞き、7日明け方、自宅の唯信寺(中区舟入南4丁目)へ連れ帰る。安佐郡狩小川村(安佐北区)に学童疎開していた小学6年の妹洵子は「門の前に着くと、うなずいて死んだそうです。8人家族のうち1人疎開していた私のために、歩いて会いに来た兄の心遣いを今でも思い出します」。唯信寺は舟入地区住民の避難先に決められており、約760人が避難し、うち350人が死去。
大下 卓郎(12)
呉市吉浦本町▼不明▼8月6日▼母志づ江らが捜すが、遺骨は不明。義姉須磨子は「作業現場跡近くで水筒を見つけたそうです」。
大村 一雄(13)
広島市猫屋町(中区)▼本川小▼8月6日▼遺骨は不明。宇品町
の郵便局に動員されていた祇園高女(現・祗園高)4年の姉敏子は「猫屋町の避難先だった川内村(安佐南区)で9日に落ち合った父は、一人息子の一雄が来ないので『殺してしもうた』とうめくように言いました」▼爆心700メートルの自宅にいた鋳物工場経営の父菊蔵(53)は12日、母福子(47)は13日に死去。1キロの水主町(中区加古町)で被爆した長女喜世子(22)は6日爆死。
岡田 穰(ゆたか)(12)
広島市己斐町(西区)▼己斐小▼8月10日▼「鉄橋を三つ越えて
戻った」と言って6日午前10時ごろ、母と妹らがいた自宅に戻る。小学3年だった妹周子は「包帯に覆われた手に宿題を持っていると思ったのか、欠席していた友達の名前を呼んで『これを提出してもらってほしい』と言いました」。最期は、左耳たぶが落ちていた体を皇居がある東方に向け、「海行かば」を歌った後に「天皇陛下万歳」を三唱して10日昼死去。
沖本 壽秋(かずあき)(12)
佐伯郡大野村(大野町)▼大野小▼8月6日▼遺骨は不明。母チ
エコらが原爆ドームに面する元安川に架かる元安橋の下で、弁当箱と防空ずきんを見つける。弁当箱の中には、母が持たせた麦ご飯とジャガイモの煮付け、焼いた小魚ギザミ(ベラ)がそのままあったという。姉幸子と妹敏子は「母は、数日前に刈った兄の髪の毛を仏壇に供えていました」と言う。
奥本 健(たけし)(12)
高田郡三田村(安佐北区)▼県立広島師範付属小(現・広島大付
東雲小)▼8月6日▼父義磨と母信子が7日、市内に入って捜すが、遺骨は不明。90歳になる母に代わって、小学2年だった弟均は「両親は『ひょっとしたら帰ってくるかもしれない』と戦後になっても、食事は兄の分を用意し、夜もかぎを掛けずにいました」。
久保田 恒夫(12)
佐伯郡厳島町(宮島町)▼厳島小▼8月6日▼父国男が6日、近
所の人の伝馬船で向かう。広島陸軍被服支廠(南区出汐2丁目)へ運ばれたのを知り、棚にあった骨つぼを持ち帰る。87歳になる母静枝は「体調を崩して2、3日休んでいましたが、『上の学校へ進むのにもう休めない』と出掛けました。恒夫はいったん作業現場に出た後、先生から言われ、学校へ戻って行ったそうです」。
熊崎 祐次(12)
広島市牛田町(東区)▼牛田小▼8月6日▼父春次と母キヨコが、同級生から本川東側が作業現場であるのを聞いて捜すが、遺骨は不明。高田郡粟屋村(三次市)に学童疎開していた小学5年の妹正子は「口数の少ない兄でしたが、『日本は勝つ。軍人になる』とよく話していました」と言う。
桑原 幸則(13)
二中寮。実家は安芸郡音戸町早瀬▼早瀬小▼8月7日▼祖母ハツ
メと母コヨネが7日、救護所となった廿日市小(廿日市市)で見つけ、地元漁師から借りた船に乗せる。祖母が操る船上で「元気になったら、米国をやっつけてやる」と言い残して死去。妹アイコは「父が早く病死したため、祖母は跡取りの兄への思いが強く、祖母が亡くなった後に持ち物を整理すると、ひそかに納めていた被爆したぼろぼろの制服がありました」。
故選 浩行(12)
広島市草津本町(西区)▼草津小▼8月7日▼己斐までたどり着
き、目が見えなくなって水路にいたところを、知人が馬車に乗せる。帰宅後は、母正子に被爆直後の様子を興奮した状態で一晩中話し、7日昼、見舞いに訪れた近所の一年先輩に「ありがとう。さようなら」と言って死去。90歳になる母は「足にけがをして5日まで休んでいましたが、『友達に申し訳ない』と出掛けました」と言う。実家の浄土真宗教専寺で、学校は10月20日、分骨を遺族に配る「学校葬」を営む。
児玉 速男(12)
佐伯郡大竹町(大竹市)▼大竹小▼8月6日▼姉の文枝と絹子が
7日午後、本川左岸の土手で、あおむけに倒れているのを見つける。両脚のゲートルはきれいに巻かれたままで、顔にやけどもなく、眠っているように見えたという。姉2人は「捜している時に空襲警報が鳴り、急いで新大橋の下に逃げると、弟の遺体が目の前にありました。今も不思議な気がします」。
財間 一國(13)
広島市南三篠町(西区)▼天満小▼8月7日▼6日午後3時ご
ろ、倒壊した自宅へたどり着き、母ツルノらが運んだ己斐町の知人宅で「1、2、3」との掛け声を上げるうち息を引き取る。15日に東京から戻った大学1年の兄明は「弟が戻ってきた時、母は思わず『どちらさんですか』と問い返したそうです。それほど、やけどで顔かたちが変わっていました」▼古物商の父市太郎(47)は鍛冶屋町(中区本川町)で被爆し、12日、二男一國が運ばれた知人宅で死去。
佐伯 章一(12)
広島市榎町(中区)▼本川小▼8月6日▼母フミエが捜すが、遺骨は不明。
佐々木 敏(さとし)(12)
二中寮。実家は山県郡筒賀村▼筒賀小▼8月6日▼母ハヤコらが
捜しに向かうが、遺骨は不明。母から受け継いだ7月31日投かんの手紙を仏壇に納める姉喜佐子は「寮の上下関係は厳しく、手紙は『近くにいる姉さんがうらやましくなりました。やさしいやさしい母上様』と結んであります。わが家がどんなにか恋しかったことかと思います」。
佐藤 利介(13)
広島市河原町(中区)の伯母宅▼大阪府立市岡中(現・市岡高)から転校
▼8月7日▼大阪空襲で自宅が焼失した後の7月に転校が認めら
れ、いとこに当たる同じ3学級の三浦俊彦宅に転居していた。母の郷里である佐伯郡三高村(沖美町)にいた小学5年だった妹美栄子は「戸籍では6日死去になっていますが、俊彦さんとともに翌日まで生きていたと叔母から聞いております」▼母春代(33)は三高村から河原町の姉宅を訪ねていて6日死去。
志水 淳(あつし)(12)
広島市二葉の里(東区)▼済美小▼8月6日▼家の下敷きになっ
た母貞子と動員先から戻って来た二中3年の兄が7日昼、作業現場跡を捜すが、遺骨は不明。89歳になる母は「息がまだあった5、6人の生徒が人の気配を感じたのか、『兵隊さん、水をください』と言いました。せめてもと水筒のふたで一口ずつ上げるのが精いっぱいでした。川面は、遺体が重なり合うように埋まっていました」と言う。父清は46年シンガポールから復員し、広島大原爆放射能医学研究所教授として爆心地の復元調査に努めた。
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死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所▼出身小学校(当時は国民学校)▼死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)▼被爆死状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略) |
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