中国新聞社


ヒロシマの記録−遺影は語る

広島市女2年
  つみとられた未来             
99/2/28   

旧広島市女(現舟入高)  広島市中区の平和記念公園そばの元安川右岸に、一つの碑が建つ。正面のレリーフは、セーラー服とモンペ姿の少女を、花輪とハトを抱いた友二人が囲む。裏側には「友垣に まもられながら やすらかに ねむれみたまよ このくさ山に」と刻む。碑は「広島市立高女原爆慰霊碑」という。

 「市女」の名で呼ばれた市立第一高等女学校では、一九四五(昭和二十)年八月六日、碑が建つ一帯の建物疎開作業に動員された一、二年生五百四十一人をはじめ、三、四年生、専攻科の生徒合わせて六百六十六人と職員十人が被爆死した。市内で最大の犠牲者を出した学校は四八年、学制改革で二十七年間の校史を閉じ、現在は市立舟入高となる。

 元安川の河原で折り重なるように息絶えたセーラー服とモンペ姿の少女たちが、希望に胸膨らませて入学した写真が残る。被爆時に二年生だった同級生や遺族が保存していた。六クラス分の写真と、数少ない生存者をたぐり、被災記録の掘り起こしに協力を求めた。

 入学した四四年に出された国の学徒勤労令により、オカッパ頭の少女たちは、現在の平和記念公園の南側に動員された。一週間の予定で建物疎開作業が始まったのは八月五日。その翌日、遺族の手記にある「肌着は破れ髪は乱れて裸となって誰(だれ)とも見分けがつかない」状態になった。まだ十三、十四歳でしかなかった。

 「級友たちが苦しみながら死んでいったのに、欠席して助かりました。このことはずっと私を苦しめました(略)。はっきり言って触れたくない事柄です」。被災状況の調査協力をお願いするため送った手紙に、ある同級生は今も癒(い)えぬ傷をしたためて返した。原爆で母と妹を、わが家を失ったその女性は、自分も写るクラス写真を見て「同じ時代を一生懸命生きた人たちを思い、涙しました」と記していた。

 被爆して生き残った自分が申し訳ないという、重く悲しい体験を持つ人たちが記憶の封印を解き、できたのが今回の「遺影は語る」である。六枚のクラス写真に写る生徒は三百十人。うち被爆死した二百二十四人が遺影として確認され、転入生死没者二人の写真の提供も受けた。併せて、確認作業に協力した三十人に、自身の被爆体験や市女時代の思い出、次世代への訴えを記述してもらった。

(報道部・西本雅実)



photo
 被災地の元安川右岸に建つ慰霊碑。占領下の1948年、「平和塔」の名で中区舟入南1丁目の舟入高校内に建立され、57年に現在地に移設された
 1 組   2 組   3 組 
 4 組   5 組   6 組 

広島市女226人の遺影確認(2月28日)
記録提供お願いします(2月28日)

<グラフィックの見方>入学写真で名前が分かった死没者は濃い灰色▽生存者は白色▽転校したとみられる消息未確認は薄い灰色で示し、紫色は名前が判明しなかった生徒を表す。【】内は転入生や遺影として確認できなかった死没者の名前。いずれも同級生や遺族の証言と、広島市女原爆遺族会や舟入高の記録に基づく(敬称略)。



広島市女2年
 藤本潤枝(3組)
 日本の勝利を信じていました。6日は日射病で初めて休み、それで両親も疎開先から下柳町(中区)の自宅へ向かうのが遅れて、助かりました。碑の前に立つと感無量になります。原爆で多くの平凡な市民、学生が何の理由もなく亡くなった事実にです。(入学写真には写らず)

 小林澄子(4組)
 胸を患い、元宇品町(南区)の家にいました。第一県女(現皆実高)の教師だった姉は、土橋町付近(中区)の建物疎開作業に出ていて被爆。父が捜し歩き、8日夜に収容先が分かった時は既に亡くなっていました。20日ごろ登校した学校は人けがなく、言葉になりませんでした。

 高井和子(4組)
 おなかをくだし、古市町(安佐南区)の家にいました。被爆直後に学校へ行き、髪が抜けました。死んだ友達のお母さんに「よかったね」と言われるのが反対につらくて・・・。年のいかない少女たちが疎開作業に使われ、多くが遺骨さえ分からない。戦争だから仕方がないとは思えません。

 玉谷圭子(4組)
 1年生の終わりごろ比婆郡東城町に疎開しました。原爆で亡くなられた(2組の)溝上先生のお宅で5年前に見つかった書き初めを受け取り、仲のよかった友達のことを思い出しました。泳ぎを習ったり、ふりかけをつくる工場で働いたり。戦争がなければ違った女学校時代だったはず。

 古川光世(4組)
 疎開先の狩小川村(安佐北区)で、大音響を耳にしました。宝町(中区)の家は焼け、書き写した教科書を使って1クラスで授業が再開しました。10月、講堂で慰霊祭が営まれ、「娘の髪をもうといてやれない」と言われた同じ組のお母さんの言葉が忘れられません。(入学写真には写らず)

 落合幸子(5組)
 原爆の1週間前に三次市に疎開しました。作業に出た同級生たちが元安川に浮かんでいた、先生が防火用水の中に生徒を入れて死んでおられたなどと聞き、ただただ驚き、悲しく、自分が生きていることの罪悪感にさいなまれました。二度とこのようなことが起きないことを願います。

 田中美代子(5組)
 ろく膜を患い、長いこと休んでいました。当日は吉島(中区)の自宅裏庭でせん光を浴びました。重傷を負い何も感じられない日々でしたが、同じ中島小から入った十数人のうち2人だけ生き残ったことを知り、後ろめたい気になりました。その気持ちは今もってぬぐい切れません。

 松尾和加子(5組)
 動員作業に明け暮れ、授業は「神国日本」などと、楽しいことは皆無でした。7月に山口県へ疎開し、翌年復学しました。結婚して子どもを育て、その息子が23歳で亡くなり、同級生の親ごさんの悲しみが身にしみました。年齢を重ねるごとに未曾有(みぞう)の出来事に身震いしています。

 藪野時子(5組)
 炎天下、皆が一列に並び、屋根がわらを1枚ずつリレー式に運ぶ建物疎開作業は、とても苦しかったものです。6日は下痢で矢賀(東区)の家にいました。後で皆さんの最期の様子を聞き、今も言葉になりません。秋に登校すると、知らない人たちが校舎の板壁をはいで大八車で持ち帰っていました。

 猪野純子(5組)
 大豆かすのような弁当を持って通学していました。授業内容はあまり覚えていません。疎開先の庄原市で同級生のことを知って体全体に電流が走りました。当分は、生きているのが申し訳ない気持ちでした。平和な時代の学生は、いろんなことに挑戦し、中身のある人になってほしい。

 池田美耶古(6組)
 爆心4キロの南区の自宅で被爆し、実家の神社は救護所となり負傷者を似島へ送る手伝いをしました。同級生が亡くなった現場で遺品を探す作業は、とてもつらく、引率の先生から「そこの生き残り」と呼ばれ、この作業が終われば死にたいと思いました。負い目を感じて生きてきました。

 岡本愛子(6組)
 紙屋町(中区)の医院に行くはずが、バスが故障して来ず三篠本町(西区)に帰宅したところ被爆しました。母は町内の義勇隊員として小網町(中区)へ建物疎開作業に出かけて全身やけどを負い、8日に亡くなりました。一緒に入学した方々とともに長く話し合える幸せも失いました。

 神原良子(6組)
 麦踏み、稲刈り、土運び・・・。体が弱く勤労奉仕が一番こたえました。原爆は、疎開先から戻った母を迎え大須賀町(南区)の自宅で遭いました。父は2日後に死去、兄たちは戦死です。戦後、仲のよかった友達のお母さんに会うとすまない気持ちになりました。戦争のない世界が願いです。

 谷本晴恵(6組)
 慣れない農作業の後にいただいた白い米のおむすび、担任の八林先生が参観日でも教えられた英語の授業・・・。クラス全体で助け合い行動していました。あどけない女学生の命までを奪う戦争はあってはなりません。平和を信じて亡くなった友の願いを次の世代に伝えなくてはと思います。

 宮本淑子(6組)
 体調不良で欠席し、皆実町(南区)の自宅で被爆しました。市女の1年生だったいとこは、一家全滅でした。遺族の方に会うのがはばかられ、今も慰霊碑を見ると、言いようのない戸惑いを覚えます。あの悲劇を繰り返さないよう努めることが、犠牲者へのせめてもの慰めです。

 


























































 
 池浦美どり(1組)
 あこがれの市女に入学した年は、遠泳や運動会と楽しいこともありました。2年生になると、専売局(現JT)や印刷所、菓子工場、農作業と勤労奉仕に毎日のように出ました。7月に豊田郡に疎開、そこで級友の全滅を知り、驚きとともに悲しく無念の思いでいっぱいでした。

 内田富美子(1組)
 8月5日は、建物疎開作業は午前中で打ち切り。6日は熱が出て山根町(東区)の自宅におり、倒壊した家屋からはい出して逃げました。生き残ったことが他の遺族に申し訳なく、亡き友の分まで力強く生きようと思いました。平和な時代に生きる後輩たちに戦争の悲惨さを語り継ぎたい。

 中野シズエ(1組)
 広島駅近くの自宅で伏せっていて被爆しました。8月末、学校へ行くと、亡くなった人たちの弁当箱が並べてあり、同じクラスのお母さんから「娘の代わりに長生きしてください」と言われ・・・。何とも言えない気持ちでした。命をいただいたことに感謝しながら生きてまいりました。

 荻野澄子(2組)
 ひどい頭痛に襲われ、南蟹屋町(南区)の自宅で被爆しました。作業に出た同級生の全滅に全身の力が抜け、学校へ行くのも嫌になりました。遺族の方に、今もどのように述べてよいやら・・・。戦争で得ることは何もありません。いかなることがあろうとも戦争は絶対にしてはいけません。

 佐々木博子(2組)
 強かった水泳部で活躍するのが夢でした。当日は水主町(中区)にあった県庁の前を歩いて作業に向かう途中に被爆し、父は勤めていた県庁で死んだと思います。10月ごろ学校に行き、6クラスが1クラスになったのを知りました。世界は平和でなければならない。孫たちに話しています。

 宮原愛子(2組)
 軍服を縫ったり、だんごを食べていたのが被爆前の一番の思い出。6日は病院で足のできものを治療するため、富士見町(中区)の自宅に姉たちといて下敷きになりました。もう一人の姉は今も行方不明。市女慰霊碑は、いつも8月6日前に一人で参り、めい福をお祈りしています。

 守田淳子(2組)
 断続的に勤労奉仕が続き、体にこたえましたが、お国のためと思って頑張っていました。当日は作業疲れで40度近い熱が出て欠席し、三篠本町(西区)の自宅にいました。家は焼け、妹が重傷を負ったため山口県に移り、転校しました。戦争の恐ろしさ、命の貴さを伝えたいと思います。

 恵南富貴子(3組)
 呉海軍にいた父に初めて外泊許可が出たので、疎開作業を休んで広島駅に行き、構内で被爆しました。今でいう中学2年で亡くなった友達、そのご両親の気持ちが年を取るに連れて痛いほど分かります。罪もない若い人を殺し合う戦争は二度と繰り返さないよう、お願いします。

 近藤節子(3組)
 あの日は、舟入町(中区)の自宅にいて、隣の赤ちゃんが泣いていたので抱っこして出た瞬間、軒下に倒れていました。原爆の本当の怖さは、体験者でなければ分からないと思うし、人に話したことはありません。大切な少女時代を戦争のために犠牲になったのは、私たちだけでたくさん。

 井出迪子(3組)
 6日の朝は、作業準備をして友達の山下恵子さんが迎えに来るのを家で待っていました。原爆は観音町(西区)の自宅で遭いました。なぜ、山下さんは、あの日に限って私を誘わず行って亡くなられたのか・・・。多くの犠牲があって、平和な日本があることを忘れてはならないと思います。

 田村愛子(3組)
 急性腎炎にかかり、疎開先の宮島から父と市内の医院へ向かう支度をしていました。逃げて来た人たちの悲惨な様子は忘れられません。病気だったとはいえ、自分が助かった喜びは感じられませんでした。恩師や友人の方に対して後ろめたい思いを抱きました。原爆は絶対に許せません。

 田村晶子(3組)
 数日前にプールで泳いで夏風邪をひき、牛田早稲田(東区)の自宅で被爆しました。授業は二階廊下のすきまから階下が見える校舎で再開しました。生き延びさせてもらったのにふさわしい生き方をしてきただろうかと反省しております。戦争、B29、原爆投下は憎いの一言につきます。

 野川照子(3組)
 きのこ雲は、5月に疎開した高田郡吉田町で見ました。両親と兄、姉の4人は、義勇隊などに動員されて被爆し、最後に母が亡くなった時は涙も出ないほどでした。平和のありがたさ、学校教育の大切さ、原爆は傷を負わなくても、放射能で死ぬという事実を知ってほしいと思います。

 間民江(3組)
 前日の作業中に、かわらが額に当たり、先生から休みなさいと言われ、南竹屋町(中区)の家にいました。けがでなければ死んでいたはず。13、14歳の少女が「天皇陛下万歳、お母ちゃん」と言い、元安川に入り亡くなったことを思うと胸が痛みます。原爆の体験が風化しているのが残念です。

 間信子(3組)
 7月に岡山県へ疎開し、翌年2月復学しました。教室は窓ガラス代わりの紙が破れ、寒さで鉛筆が握れなかったこともあります。戦争で勉強はほとんどできず、貧しく厳しい生活でしたが、乙女心はきちんと持っていたと思います。今の若い人たちにも、明るく強く生きてほしいと思います。



Menu