監視塔の外から5メートルほど階段を下りた所にある部屋への入り口。扉には約10センチの厚みの鉄扉が使われていた(シャー地区) |
地下核実験が続いていたころに使用された削岩運搬用トロッコをあしらった記念モニュメント。今では訪れる人もほとんどない(ゲー地区) |
地下核実験場近くでの鉄くず収集の手を休め、一息入れるサルジャール村の男たち。「健康のことは心配だが、現金収入を得るためには仕方がない」と口をそろえる(ゲー地区) |
瓦礫(がれき)でほとんど埋まった地下核実験場の入り口を示すジョマルト・ウアリエフさん。「実際の入り口の大きさは直径3メートル、奥行き1キロぐらいはある」と言う(ゲー地区) |
サルジャール村の男たちが集めた古びた鉄パイプ。1トン20ドルで中国へ売られる(ゲー地区) |
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生活の糧 劣悪環境で作業 カザフスタン最大の都市アルマトイから北東へ約八百キロ。ロシア国境にほど近い人口三十五万人のセミパラチンスク市へ到着した翌朝、旧ソ連時代最初の核実験場(ポリゴン)へ車で向かった。 市外の幹線道路へ出て間もなく。東の空に昇った太陽が、広大なカザフの草原に日差しを降りそそぐ。時おり、その草原に長い影を落としながら、のんびりと草をはむ牛や馬たち…。 「もうすぐ軍事秘密都市だったクルチャトフだ」。セミパラチンスク市を出発して約一時間四十分。スポーツウエアに身を包んだガイド役のジョマルト・ウアリエフさん(45)が言った。核実験によるヒバクシャの支援活動などに取り組む非政府組織「核被害者同盟」のスタッフである。 「核実験が続いていた八九年までは、軍人や科学者、その家族ら二万五千人が住んでいたけど、ロシア人が引き揚げた後は九千人足らず。随分とさびれているよ」 ウアリエフさんの言葉どおり、整った町並みには人影は少なく、アパート群にも空き家が目立つ。メーンストリートを抜けると、その中央に巨大な像が建っていた。豊かなあごひげをたくわえ、鋭い視線ははるか西方の核実験場を凝視する。
「博士は国防という点では偉大な人物かもしれないけど、ポリゴン周辺の村の人たちや自然を放射能によってたくさん犠牲にしたんだから好きになれんよ」。クルチャトフ市とは実験場を挟んで南西に位置するカイナール村近くで生まれ育ったウアリエフさんは、像を見つめながらいまいましそうに言った。 核実験場への入り口にあたる秘密都市を後にし、四九年八月二十九日のソ連初の核実験から六二年末まで計百十八回の大気圏核実験が実施された「シャー地区」を目指した。 「いつもはここから実験場へ入るのに、新しい軍事施設ができて通行できなくなっている」。ウアリエフさんが示す道路の向こうには、いくつかの兵舎があり、兵士たちが監視に立っていた。 仕方なく遠回りをして、別の道から中に入る。道といっても、一面に枯れ草が生える平原に未舗装の小道があるだけだ。四方どこを見渡しても同じ光景だけに、地理に慣れた者でも方向を見失いそうになる。 悪路を走ることさらに一時間半。核実験の残骸(ざんがい)があちこちに見え始めた。車から降りて歩いてみる。厚い鉄扉で遮られたいくつもの監視塔、焼け焦げた地下壕(ごう)、実験に使われたと思える装置…。爆心地への立ち入り禁止用に張り巡らされた有刺鉄線は破られ、人も動物も自由に入り込める状態である。 最初の原爆が炸裂(さくれつ)した爆心地は、この辺りからなお数キロ西にあるはずだった。だが、ウアリエフさんもドライバーもその道を見つけられない。ジープでないために、道なき平原を走ることもできなかった。 「いつもと違う道を走ったので、分からなくなった」と、探しあぐねた末に、ウアリエフさんはバツが悪そうに言った。仕方なく、そのまま南へ約七十キロ走り、地下核実験場となったデゲレン山のある「ゲー地区」へ。着くと道路そばに、かつての最高秘密施設だった核弾頭の組立工場や大きな倉庫、二〜三階建ての数棟の宿泊施設などが残っていた。 「実験中はこの宿泊所に、軍人や地下のポリゴンで働いていた作業員らが大勢いた。でも、終了後しばらくして、多くは引き揚げた」とウアリエフさん。 閉鎖後は、地下実験跡から放射能汚染のケーブルや金属性の測定器材など金目のものを盗む人たちが絶えなかったという。残った作業員らは、危険防止のためにブルドーザーで瓦礫(がれき)を集めて入り口をふさいだ。 「九〇年代の半ばまでにすべての入り口は閉鎖された。今は監視のために数人が残っているだけ。盗んだ金属は、みんな中国へ売り飛ばしたんだ」 ウアリエフさんはこともなげに言うと、地下核実験で山肌がすっかり崩れ落ちたデゲレン山に向かうようにドライバーに告げ、話を続けた。 「地下実験の前には、カイナールや周辺の村にヘリコプターで軍人がやってきて『家の外に出るように』と触れて回ったよ。家の倒壊や窓ガラスが壊れる危険があったからだ」 実験場からウアリエフさんの家までは、南西へ約七十キロ。彼は何度も地震のような揺れを体験していた。しかし、村びとは何かを爆発させているのを知るだけで、核実験については何も知らされていなかった。 「何年だったかは覚えていないけど、草刈りをしていたときに、大地が揺れた後で白い煙が噴き上げるのを二、三度見たことがある。今思えば、爆発で裂けた地表から放射性ガスが噴出していたに違いない」 十五分ほどでデゲレン山のふもとへ着く。すると、七人の男性が山のあちこちからパイプなど錆(さ)びついた鉄を集めていた。 「この鉄をどうするのか?」と尋ねると、「セミパラチンスクへ持っていって中国人に売るんだ。一トンで二十ドル(約二千四百円)さ」と、若者の一人が威勢よく言った。 七人はここから東へ五十キロ、実験場に隣接するサルジャール村からやって来たという。一日十二時間ほど働いて二〜三トン集めるのがやっと。村との往復の時間やトラックの燃料を節約するため、一週間この近くで寝泊りすることも。 「ほら、あの建物がそうだ」。振り向くと、盛り土の上に建てたコンクリート製の倉庫跡のような建物が見えた。 一番年長の、小柄なタルガット・コクセゲノフさん(51)が、首にさげた私の放射線測定器を目ざとく見つけて、「残留放射能がないか測ってみてくれ」と言う。 携帯の測定器は、ガンマ線による身体への影響度を、ミリシーベルト単位で表示する簡易のものだ。一般人の年間線量限度は一ミリシーベルト。相当に強いガンマ線を放出しないと検出できない。鉄パイプに近づけても、地下実験場へ至る小さな穴が開いた入り口でも目盛りは表示されなかった。 「必要以上に心配しなくていいかもしれないけど、手をよく洗ったり、土ぼこりなどは吸い込まないように気をつけないと…」。そう言うと、彼らは半ばほっとした表情を示しながらも、「風が強いときは、土ぼこりで前も見えないほどになる」「大丈夫か」と問い返してきた。 残留放射線量を正確に測定するには、携帯の測定器では不十分だった。 しかし、現地取材へ出かける前にレクを受けていた星さんからは、こんな指摘も受けていた。 「大気中の線量(地表一メートルでのガンマ線量)は一つの目安だが、それだけで安全とは言い切れない。核実験場内では残留プルトニウムレベルも高いので、そこに居住したり、作物の栽培など農業には適していない」と。 アルファ線を放出するプルトニウムは、半減期が長く毒性も強い。体内に取り込むと肺や骨などに蓄積され、がんなどを誘発する要因となる。劣悪な環境のなか、実験場で長時間過ごしているサルジャール村の人たちに「大丈夫」とはとても言えなかった。 原医研の調査では、爆心地から直線で約百八十キロ離れたセミパラチンスク市内の建物のレンガから、〇・五グレイ(放射線に照射された物質が吸収したエネルギー量の単位)の放射線を検出していた。原爆投下時の広島の状況に照らし合わせると、爆心地から約一・五キロに相当するという。 核実験が行われた四十年間にどれだけ大量の「死の灰」が広範囲に降りそそいだか。その影響は、実験場周辺の村々や都市、そして遠くロシアの人々の健康に暗い影を投げかけていた。 |
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