中国新聞社

2000・5・29

被曝と人間 第5部 放射線 人知の壁
〔6〕被爆試料は語る

計算線量値 実測とずれ

 ●防護基準の見直しも

 広島市南区の広島大原爆放射能医学研究所(原医研)。その一角 の研究棟に、さまざまな「がれき」が保存されている。民家の鬼が わら、壊れた石灯ろう、壁のタイル…。「これらはすべて貴重な被 爆試料。半世紀以上経た今も、大切なことを教えてくれる」。原医 研の星正治教授(52)は、約二十年かけて集めた試料の山を見回し た。放射線測定に使うサンプルである。

5月29日
収集した被爆試料について語る星教授。すべて原爆放射線 の痕跡を残している(広島市南区の原医研)

 原爆で、被爆者は放射線をどれだけ浴びたのか。これまで多くの 科学者が研究に取り組んできたが、いまだに大まかなことしか分か っていない。広島では、星教授や広島国際学院大(安芸区)の葉佐 井博巳工学部長(69)らの研究グループが被爆試料の測定を続け、解 明に挑んでいる。

 ■データ集めに奔走

 被爆者が浴びた放射線量は、一九八六年に日米の科学者が共同で 策定した「DS86」と呼ばれる線量評価システムで導き出す以外に すべはない。

 爆心地からの距離や方角、建物内にいたか屋外だったかといった 遮へいの有無なども加味し、一人ひとりの被爆線量を算出する。D S86による計算値と、発がんなど後障害のデータを突き合わせれ ば、放射線の人体への危険度を導き出すことができる。そのリスク は、今の国際的な放射線防護基準のデータでもある。

 だがDS86の信頼性は、発表当初から揺れていた。特に、中性子 線について、遠方では計算値が実測値を大きく下回っていたから だ。「誤差の範囲ではなく、見過ごすわけにはいかなかった」。入 市被爆者でもある葉佐井学部長は、この研究に取り組み始めた時の 決意を振り返る。

 ずれを裏付けるデータを集めるため、研究グループは試料の収集 に駆け回った。自転車で古い民家を訪ね、被爆建物が取り壊される と聞いては、現場に駆け付けた。

 ■新たな解析法活用

 被爆試料には、放射線が当たって変化した物質が含まれている。 その量を測定し、どれだけの原爆放射線が当たったかを割り出す。 地道に集めたデータが増えるにつれ、DS86とのずれがますます浮 かび上がった。

 ただ、中性子線について調べることができたのは、速度の遅い 「熱中性子」という種類。速度が速く人体に最も影響が大きい、肝 心の「速中性子」は測定が難しく、データはほとんどなかった。最 近、銅の試料を使った速中性子の解析法が開発され、より正確にD S86と比較できるようになった。「うまく測定できれば、決め手に なるかもしれない」と星教授は期待をかける。

 ■広島の重み今なお

 現在、日米合同の検討委員会が設置され、DS86の見直し作業に 入っている。葉佐井学部長、星教授もそのメンバーだ。この三月の 会議では、来春までに、DS86に変わる新方式の完成を目指す声明 も発表した。

 だが、日本側の科学者の顔は明るくない。DS86のずれを調べる ためには、原爆の構造や爆発時の中性子線データも検討しなければ ならないが、米側が公開しないためだ。「厚い軍事の壁も、この問 題を解消できない理由の一つ」と、星教授は不満を漏らす。

 DS86が策定されてから十四年。計算値と実測値のずれは、放射 線防護基準への見直しにつながりかねない。「原爆が広島にどれだ けの放射線を浴びせたのか。それを追究することは、被爆者だけで なく、私たちの生活とも無関係ではない」。葉佐井学部長は、被爆 地・広島が持つ意味を強調する。

(第5部おわり)


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