中国新聞社
2000/4/28

ヒロシマの記録-遺影は語る
  材木町Ⅰ


死没者名簿(その3)

 盛本 イシ(55)
 材木町102番地の自宅台所跡で遺骨を確認娘や孫たちとの7人のうち5人が死去。呉市から戻った広島駅前で被爆した三男の妻友江は「広島に空襲があるとのうわさが流れ、義母たちと3日ごろから郷里の呉に避難しました。何も起きなかったので6日朝に戻ったんです」。イシと孫は先に帰宅していたのを東3軒隣の秋本キミが目撃し、救護所で亡くなる前に、二人を含む一家の被災状況を言い残す。

 二女 山中 操(28)
 美容師呉市から爆心700メートルの八丁堀のエンゼル美容室へ向かい、遺骨は不明。

 操の長男 恒荘(1)
 祖母イシと自宅跡で遺骨が見つかる。

 三女 細川 綾子(26)
 遺骨は不明。義姉になる友江は「秋本さんの話では、綾子さんは背中が血で染まりながらも妹の和歌子さんの手を取り、東側の新橋を目指して逃げたそうです」。

 五女 和歌子(18)
 遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)

 橋本 友次郎(62)
 材木町102番地の自宅で爆死したとみられる。遺骨は不明妻と2人。47年に中国から復員した長男力は「父は年とともに視力が弱り、一人で外出することができなくなっていました。自宅にいて逃げ出せなかったと思います」。(注・遺影なし)

妻 キヨ  妻 キヨ(64)
 遺骨は不明。「宇品港から中国戦線に向かう私を見送りに来た母 は、涙ながらに『生きて帰っておいで』と言いました」。





岡田 ハルミ  岡田 ハルミ(32)
 飲食店勤務芦品郡福相村(福山市)に住む母セイが玄関跡で遺骨を確認福相村にいた妹は「実家に疎開していた姉は『大事にしている掛け軸があるから』と2、3日前に、家族が引き留めたにもかかわらず広島へ戻りました。母の話では、玄関口で靴を履いたまま死んでいたそうです。兵隊に出た弟3人は無事だったというのに…。父が病死した後は、母への仕送りを欠かさず一家を支えていました」。

 坪井 松次郎(年齢不明)
 指物師誓願寺境内にあった102番地の自宅兼茶店で爆死したとみられる。遺骨は不明妻や長女家族との2世帯8人のうち6人が爆死。

 妻 ふじ(69)
 茶店経営三菱重工業広島造船所に徴用されていた長女の夫岡本保が遺骨を確認。孫の昌三は「店は、夏はところてんに盆灯ろう、冬は焼き芋を売っていました」。誓願寺住職の成田準弘と遠縁に当たり、35年ごろから境内で茶店を開いていた。

 長女 岡本 きぬ子(36)
 夫保が遺骨を確認。鉄砲屋町78番地(中区袋町)の自宅が建物疎開となり実家に家族6人で移っていた。爆心2・4キロの第二国民学校(現・観音中)で被爆した2年の長男昌三は「父と学童疎開していた妹の3人で10月、境内跡にバラックを建てました。町内にはだれも住んでおらず、夜は辺り一面真っ暗やみでした」。

 きぬ子の二男 坪井 謙八郎(7)
 中島小2年遺骨は不明。息子がいなかった祖父の養子になっていた。

 三男 道明(4)
 西隣の防空ごう前で倒れているのを父が確認。

 二女 静枝(1)
 母とともに遺骨が見つかる。(注・いずれも遺影なし)

久笠ハツコ  久笠(くがさ)ハツコ(49)
 材木町104番地の自宅で爆死。岩国市の陸軍燃料廠に勤める夫 松吉が遺骨を確認夫と四男の3人。桐原容器己斐分工場(西区)に動員されていた山陽中3年の四男孝は「母を捜して歩き、数日後 に十日市町辺りで父と出会いました。焼け焦げた容器の中に、母は骨のかけらとなっていました。国のためなら命も惜しくないという時代のせいでしょうか、ショックを感じた記憶はありません」。

住本 格馬  住本 格馬(47)
 小間物「てんぐ本店」勤務材木町105番地の自宅を出ていたらしく、遺骨は不明二男、三男との3人。前日に佐伯郡砂谷村(湯来町)の疎開先から戻った妻と四男、五男と合わせて6人のう ち5人が爆死。4月、陸軍に召集された長男勝は「父の郷里にいた母たちがなぜ帰っていたのか…。残念でなりません。家の並びの一帯は『てんぐ』の借家が続き、南隣の木挽町との境になる路地は『天狗(てんぐ)小路』と呼ばれ、誓願寺の境内とともに子どもの遊び場でした」。

妻 カワヨ  妻 カワヨ(39)
 爆心1・6キロの鶴見橋西詰め付近の建物疎開作業に動員され、被爆した広陵中1年の三男直彦が自宅跡で遺骨を確認。





二男 悟  二男 悟(15)
 崇徳中3年安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所に連日動員されていたが、6日は爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作 業となった。佐伯郡八幡村(佐伯区)の叔母宅で18日死去。



 四男 武男(8)
 小学2年砂谷村から母と戻り、爆死。(注・遺影なし)

 五男 高彦(1)
 爆死。(注・遺影なし)

池田 光一  池田 光一(46)
 「池田屋」靴店材木町105番地の自宅で爆死。宇品町の陸軍運輸部に勤めていた同居の義弟川野孝爾らが遺骨を確認義弟一家との2世帯6人のうち5人死去。母と佐伯郡八幡村(佐伯区)に縁故疎開していた小学2年の二女和代は「あのころは、人が死ぬのは珍しくないといった世の中で、私も子どもながらに父の死を受け止めました。母らと4人で4月ごろ疎開した後に叔父家族が移っていました」。

 義弟の妻 川野 キヌヱ(27)
 ふろ場跡で遺骨が見つかる。孝爾とともに捜した弟武雄は「下半身が焼け残っていました。泣き言ひとつ言わなかった兄が『もういい。後は一人にしてくれ』と号泣しました」。(注・遺影なし)

 キヌヱの長女 幸子(5)
 誓願寺境内で妹2人と遊んでいたとみられる。(注・遺影なし)

 二女 ミユキ(2)
 遺骨は不明。(注・遺影なし)

 三女 邦子(11カ月)
 遺骨は不明。(注・遺影なし)

小川 菊枝  小川 菊枝(28)
 福屋百貨店勤務郷里の萩市から母ヨシコが訪ね捜すが、遺骨は不明妹花子は「姉は105番地の中山コトメさんの2階に間借りし、福屋で電話交換の仕事に就いていました。父が42年に他界した際、葬儀に出るよう私が訪ねましたが…。8月6日に届いた『食糧を送ってくれてありがとう。少しずつ食べます』との便りが最後の音信となり、仏壇には産毛を納めています」。

光本 正男  光本 正男(26)
 大工材木町105番地の自宅から県庁北側の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明妻や父、弟との4人。前年に結婚し、安佐郡古市町(安佐南区)にいた妹冨美子は「兄と弟の二人は、祖父の代から大工をしていました。父は跡取りを失った後も黙々と仕事に励んでいましたが、はためにも気落ちしているのが分かり10年後に脳出血で死にました」。

弟 晋二  弟 晋二(19)
 大工外出先で被爆。廃虚の広島で、父豊吉とかんなを振るっていたが、寝込むようになり、46年5月27日死去。





 佐藤 タキヨ(40)
 材木町105番地の自宅かわやで被爆。西部第二部隊として佐伯 郡廿日市町(廿日市市)で塩をつくっていた夫龍男が7日に入り言葉を交わす 子どもとの3人が死去。深安郡中条村(神辺町)に縁故疎開していた小学5年の長男進は「母はがれきの中でトタンを日よけ代わりにして町内の人といたそうです。部隊に戻る父に弟と妹の遺骨を預け『中条村へ行く』と言った後は分からなくなり、命日は、みな8月6日になっています」。

 二男 正弘(5)
 自宅前の天狗小路で妹とともに遊んでいた。

 長女 良子(3)
 爆死。(注・いずれも遺影なし)

成田 準弘  成田 準弘(61)
 浄土宗誓願寺住職材木町105番地の1の庫裏跡で、弟子の僧りょが遺骨を確認妻と2人。復員後は教職に就いた一人息子の鉞雄と結婚した妻正子は「夫は材木町に近寄ろうとせず、お墓にも私一人が参っていました。公園建設で54年ごろ、お墓を三滝本町に移してからは気持ちの整理がついたのか、一緒に墓参するようになりました」。寺の建立は毛利輝元による1590年にさかのぼり、山門は高さ12・7メートル、幅9メートル。約1万平方メートルの境内はハトが集まり、亀が泳ぐ池とともに、子どもたちの遊び場でもあった。

 妻 タケノ(45)
 鐘楼近くにあった防空ごうで遺骨を確認。(注・遺影なし)

山本 一雄  山本 一雄(37)
 自転車卸店勤務材木町15番地の自宅で爆死。己斐駅で被爆した妻シマ子らが1週間後に遺骨を確認妻と2人。母の胎内で被爆し、翌46年1月に生まれた二女喜久子は「手先が器用だった父は、自宅で自転車の修理もしていたそうです。母は、長男と長女を疎開させていた岩国市の実家を訪ねて帰る途中だったと聞いています」。

福島 鶴松  福島 鶴松(50)
 中島小勤務材木町16番地の自宅で爆死したとみられる。遺骨は不明妻と2人。おいの和男は「中島小で調理係をしていた伯父は町の警防団員も務めており、6日は学校には出ていなかったと聞きました」。北隣の中島本町85番地にあった実家では、両親、弟、妹の4人が死去。



 妻 政子(43)
 遺骨は不明。(注・遺影なし)

 石川 達夫(29)
 三宅薬局勤務遺骨は不明。自宅は材木町16番地。中島本町27番地の三宅薬局に勤めていた妻と一人娘は高田郡本村(美土里町)に疎開していた。安芸郡奥海田村(海田町)の第11海軍航空廠に勤めていためいのサチ子は「原爆の前日(注・日曜日)に叔父を訪ねると、『映画でも見ておいで』と小遣いを手渡され、戻るとエンドウ豆が入った白いご飯を七輪でたいていました。叔父を失った叔母と長女は、事情があって離れて暮らすようになりました」。(注・遺影なし)

《記事の読み方》死没者の氏名(年齢)
職業遺族がみる、または確認した被爆状況原爆が投下された1945年8月6日の居住家族(応召や疎開中は除く)や同居者と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)

 穐本 熊生(39)
 県警察部国民動員課勤務材木町17番地の自宅から水主町の県警察部に出たとみられ、遺骨は不明一家4人が全滅。県警察部警務課から召集され、福岡県にいた弟正は「8月末に復員すると、兄は庁舎にいたと聞く一方で、自宅跡には通勤用の自転車が焼け残っていました。本当のことは確かめようがありません。もともとは背広の仕立てをしていた兄は、生地が不足するようになり、42年ごろから県警察部に勤め始めました」。

 妻 清子(29)
 運ばれた佐伯郡平良村(廿日市市)の救護所で死去し、正の妻が遺骨を受け取る。

 二女 良子(2)
 遺骨は不明。

 三男 龍(9カ月)
 遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)

 竹永 辰次郎(40)
 二重焼きまんじゅう「東京堂」軍の公務で東京から4日、材木町17番地に帰宅していた。遺骨は不明。応召前は中島本町の勧商場近くで、まんじゅう店を営んでいた。

 妻 ハギノ(41)
 夫の帰宅を受け、疎開していた佐伯郡平良村から戻り、遺骨は不明。(注・遺影はいずれも99年7月13日付「中島本町Ⅰ」編で掲載)

高橋 ソメ  高橋 ソメ(37)
 鮮魚店材木町17番地の自宅で爆死。徴用で岩国市にいた夫未知雄が10日ごろ遺骨を確認夫との2人。芦品郡福相村(福山市)に縁故疎開していた小学5年の長男貢は「戻って来た父の姿を見て、母が死んだと受け止めました。幼いころから福相村の祖父宅に住み、母と暮らすようになったのは小学校に上がってからでした」。

渋谷 スギノ  渋谷 スギノ(43)
 渋谷ふとん店材木町19番地の自宅玄関跡で、夫の三次郎が遺骨を確認6人家族のうち3人が爆死。楠木町3丁目のゴム工場で被爆した三女文子は「2、3日後に自宅跡で父と涙ながらに再会しました。安佐郡深川村(安佐北区)に疎開していた布団組合に勤めていた父は、当日に戻って、地面に埋めていた米を煮て食べながら家族を捜し、19年後に他界しました」。

四女 光子  四女 光子(18)
 県地方木材株式会社勤務自宅の鏡台跡付近で、遺骨を確認。





五女 壽恵子  五女 壽恵子(13)
 広島市女1年平和記念公園となった材木町南側一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。父が名前入りの防空ずきんを現場跡で見つけて墓に納める。



高山 政楠  高山 政楠(69)
 八百屋材木町18番地の自宅から徴用で勤めていた天満町(西区)の工場で被爆。三菱重工業広島機械製作所で被爆した長男硲(はざま)政一と孫の3人で、郷里の和歌山県日高郡衣奈村(由良町)へ貨物列車で向かい、11月24日死去妻や長男家族との2世帯6人のうち4人が死去。市商業学校4年で陸軍に志願した孫の一美は「9月初め、父と広島に戻り、母と祖母の遺骨を納め、家の床下に埋めてあった家財を掘り出しました。かめに入れていた母の着物は焼けておらず、家族のアルバムも残っていました。食糧確保のために、形見の着物はやむなく手放しました」。

妻 コマツ  妻 コマツ(67)
 台所跡で遺骨を確認。





長男の妻 硲 靜子  長男の妻 硲 靜子(37)
 義母と同じ台所跡で遺骨を確認。





 靜子の二女 千代子(7)
 中島小2年遺骨は不明。(注・遺影なし)

山登 朝枝  山登 朝枝(54)
 和裁教習「山登裁縫所」佐伯郡厳島町(宮島町)の姉宅に泊まりがけで荷物を疎開させ、6日早朝戻った材木町20番地で爆死。二女歌子らが9日、洗面台跡近くで遺骨を確認子どもとの3人。宇品町の広島鉄道局本局で被爆した二女は「母が眠る東区牛田本町の寺の墓前には、『材木町町内会有志』と刻まれた献碑があり、お参りした時は必ず水をかけます。町内会長だった父が原爆の3年前に他界した時に、建てられたものと聞いています」。

 六男 篤雄(14)
 市立中(現・基町高)2年爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

 木村 キミ(46)
 脱脂綿製造・卸「精弘舎」夫彦蔵が店を営んでいた材木町21番地の自宅で爆死したとみられる。遺骨は不明義母や義弟、妹の子どもたちとの7人のうち4人が死去。一緒に住み、彦蔵と岩国市の元従業員宅を訪ねていた本川小高等科2年のおい齋藤隆重は「子どもがいなかった伯母は、病死した母に代わり幼いころから育ての親でした。伯父は救護所を訪ね歩きましたが、4人とも全く手掛かりは見つかりませんでした」。(注・遺影なし)

義母 イチ  義母 イチ(65)
 大手町2丁目(中区)にいた長女と孫を訪ね、遺骨は不明。長女家族の3人も死去。





義弟 文夫  義弟 文夫(24)
 芸備銀行(現・広島銀行)尾道支店勤務召集となり実家に戻っていた。遺骨は不明。





妹の長女 齋藤 喜久江  妹の長女 齋藤 喜久江(17)
 広島鉄道局勤務遺骨は不明。弟隆重は「比治山高女を卒業して宇品町の本局に出ていました」。





 藤井 順一(61)
 藤井商事町内会長をしていた材木町22番地の自宅で爆死。15歳の時に父がいたハワイに渡り、38年、中島本町にあった住友銀行広島支店を購入し、日本食や雑貨輸出を手掛けていた二男夫婦との3人が死去。一緒にいた知人の家族らも爆死したとみられるが、詳細は不明。

 二男 春雄(28)
 自宅南側の山本宅を訪れて爆死。

 二男の妻 ツヤ子(25)
 中島本町の別宅で被爆し、佐伯郡五日市町まで逃げて14日死去。(注・遺影はいずれも99年7月13日付「中島本町Ⅰ」編で掲載)

 田中 香苗(52)
 田中紙器印刷所妻子と3人で疎開していた牛田町(東区)から材木町27番地の印刷所に通い、爆死したとみられる。遺骨は不明牛田町で被爆した県職員の三女須美恵は「印刷所は3階建ての洋館で、福屋百貨店の贈答品用の箱や、映画館のポスターをつくっていました」。

 兄の妻 ユキ(53)
 印刷所で爆死したとみられ、遺骨は不明。疎開していた新庄町(西区)から義弟を手伝いに通っていた。

 ユキの長男 勢太郎(26)
 印刷所2階に住み、遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)

 松崎 宮子(28)
 遺骨は不明。母の田中ユキたちと連れ立って新庄町から、亡き父と叔父が営んでいた田中紙器印刷所の東隣自宅に戻り、遺骨は不明いとこの田中育子は「宮子さんは、夫が戦死したため、一人娘の『のりちゃん』を連れて材木町の実家に戻り、夜は新庄町で寝泊まりしていました。長女も即死だったそうです」。(注・遺影なし)

垰田イツノ  垰田(たおだ)イツノ(46)
 履物塗装材木町32番地の自宅から出掛けようとしていた。夫仁三と長男明が9日、遺骨と、そばにあった日傘の骨を確認夫と2人。5月から安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所の寮に住み、動員されていた広島工専(現・広島大)2年の長男は「前日の5日に初めて休みとなり、帰宅が許されました。母は、油まみれの作業着を洗濯し、大豆とコーリャンの弁当を作ってくれました。それなのに、私はささいなことから母と口論をして家を飛び出しました。小路の曲がり角で振り返ると、白いかっぽう着姿の母がたたずんでおり…。思い出すと涙が止まりません」。

 藤永 ヒナ(53)
 材木町33番地の自宅で爆死。二女の夫圓藏が7日から捜し、居間跡で金歯により遺骨を確認一人暮らし。82歳になる二女壽子は 「3人目の子どものお産が近づいた6月末、子ども二人を連れて夫が勤務していた三原市から実家へ戻ると、母が『街中は危ない』と言うので草津町の義兄宅へ身を寄せました。最後に実家を訪ねたのは7月末です。玄関わきに麻縄で束ねた竹筒が置いてあり、母は『空襲に遭ったら本川に逃げ、この竹筒を浮袋代わりにする』と言っていました」。(注・遺影なし)

 寺西 テルノ(43)
 寺西製あめ店材木町33番地の2の自宅が建物疎開となり、転居した東隣の天神町23番地で爆死夫と子どもの5人のうち3人が死去。長男和秀は「空襲の延焼を防ぐためにと角地一帯が立ち退きになりました。材木町筋は舗装がしてあり、幼いころは野球やベーゴマで遊んだものです」。

 二女 万亀子(21)
 芸備銀行勤務爆心900メートルの県庁北側の建物疎開作業に職場から動員され、遺骨は不明。

 三女 千代子(18)
 信用組合勤務転居先跡で母と折り重なるように死んでいたのを、父の美亀雄が確認。(遺影はいずれも98年10月15日付「天神町 北組」編で掲載)

木本 健一  木本 健一(47)
 東洋製罐勤務材木町33番地の自宅から、6月ごろに建物疎開を命じられ移った爆心500メートルの尾道町42番地(中区大手町2丁目)の転居先で爆死。長女美代子が10日ごろ、遺骨を確認妻子との4人のうち3人が死去。本土決戦に備えて4月に設けられた第二総軍司令部(東区二葉の里)に勤めて被爆し、78歳になる長女は「父は夏風邪をこじらせ寝ていました。妹が先に出た後、両親と3人で朝食をとり、『司令部で桃をもらって今日は早く帰ってきます』と家を出ました。それが家族との最後の朝でした」。

妻 キミコ  妻 キミコ(42)(右)
 台所跡で遺骨を確認。





 二女 嘉代子(13)(左)
 広島市女1年材木町南側一帯の建物疎開作業に動員され、爆死。姉が、材木町の隣人が見つけた遺骨を焼け残りの着衣とともに受け取る。


死没者名簿(その1) 死没者名簿(その2)