中国新聞社

99/8/03

ヒロシマの記録-遺影は語る  中島本町Ⅱ


死没者名簿


佐伯 アサコ 佐伯 アサコ(42)
製麺業「福亀」遺骨は不明。中島本町3番地の自宅から、県庁があった爆心900メートルの水主町(中区加古町)一帯の建物疎開作業に出ていた夫と2人。夫は爆心2・3キロの吉島本町(中区)の中国塗料で被爆。西練兵場(中区基町)で動員待機をしていた弟の岡村一郎(25)も爆死

竹縄 タキ子 竹縄 タキ子(47)
仕出し「極楽」中島本町7番地の自宅で爆死したとみられる。 遺骨は不明夫とおいの3人。夫は、陸軍が4月に本土決戦に備えて置いた西日本全域を指揮する第二総軍司令部(東区二葉の里)に徴用され、爆心1・7キロで被爆したものの爆心地へ戻る。本川橋そばで近所に住む下井松次郎(被爆死)から、おいの最期を聞く。「さっきまで寛ちゃんも一緒に川の中にいたが…」。

おい 寛治 おい 寛治(11)
中島国民学校(現・中島小)6年遺骨は不明。呉市沖合で海軍伏竜特攻隊員として訓練を積んでいた当時16歳の兄は「弟は、下井さんと本川につかり、しきりに伯母の名を呼んでいたそうです」。
向井 直助 向井 直助(61)
漆器店経営中島本町の住民があらかじめ避難先にしていた佐伯郡平良村(廿日市市)へ5日、妻を疎開させたが、町内会長として7番地の自宅にとどまり、爆死母と一緒に8日ごろ、自宅跡を捜した四女は「土蔵の地下をセメントで固め、その上に畳五枚を重ねた防空壕に押しつぶされていた父の遺体を見つけました。むごいありさまに涙も出ませんでした」。

菅 吾郎 菅 吾郎(69) 綿布卸「天満屋」中島本町9番地の1の自宅で爆死佐伯郡平 良村に疎開していた長男の妻と比治山高女1年の孫が、自宅ふろ場跡近くで遺骨を確認。
久保田 マサヨ 久保田 マサヨ(48)
陶器商「金満寿合名会社」中島本町10番地の自宅で爆死。遺骨は不明長男らとの3人。爆心15キロの安佐郡可部町(安佐北区)に7月に疎開した長男の妻は「3歳の娘を連れて中島本町に戻る支度の最中に、ドーンと天地を揺るがすような音がしました」。

長男 正昭 長男 正昭(30)
中国海軍監督官事務所勤務爆心200メートルの広島銀行集会所(中区大手町2丁目)内にあった事務所で被爆。妻が9月ごろ白木の箱に入った遺骨を受け取る。「夫は5日の晩、疎開先を職場の同僚とともに訪れ、アユの塩焼きを食べて戻っていきました」。

塚本 カマ子(推定24)
「金満寿合名会社」勤務遺骨は不明。(注・遺影なし)
下井 松次郎 下井 松次郎(46)
土木請負長男夫婦が借りていた「極楽」1階で被爆し、目の前 の本川に飛び込む。7日、南観音町(西区)の妹宅で死去長男は 爆心4・3キロの三菱重工業広島造船所で被爆しながら戻り、本川の中にいた父を引き揚げ、南観音町まで運ぶ。

長男の妻 ミチヱ 長男の妻 ミチヱ(22)
遺骨は不明。初めての出産を控え、6日、山県郡戸河内町の実家へ向かう予定だった。運送会社に勤めていた兄の梅田修一(25)も新橋東詰め(中区大手町4丁目)で爆死。
桐原 宇三郎(66)
洋品店「大阪屋」中島本町15番地の自宅で爆死大学生の長男 の帰省に合わせて6日朝、久しぶりに顔をそろえた親子4人と孫の計5人が全滅。(注・遺影なし)

長女 大志茂 ヨシヱ 長女 大志茂 ヨシヱ(30)
安佐郡八木村(安佐南区)から娘を連れて一人暮らしの父親宅を訪ねる。玄関跡にあった愛用の腕時計により遺骨を確認。夫は44年フィリピン沖で戦死。

ヨシヱの長女 陽子 ヨシヱの長女 陽子(2)
母と一緒に爆死。

長男 康之(21)
大阪大生弟の順太郎と台所で被爆した後、2人で逃げ出し、た どり着いた八木村のヨシヱ宅で15日死去。「天井はりの下敷きになり、火に包まれた父をどうすることもできなかった」と言い残す。(注・遺影なし)

二男 順太郎(18)
ヨシヱ宅で13日死去。(注・遺影なし)

河内 満 河内 満(41)
金物細工「大江商店」中島本町17番地の自宅玄関跡で7日、安芸郡熊野町から捜しにきた父が遺骨を確認一家4人が全滅。兄家族と同居して修行した84歳になる弟は「ろうあの私が自立できたのは、兄が金物細工の腕を仕込んでくれたおかげです」と、旧中島本町住民による追悼法要に出席する。

妻 アキノ 妻 アキノ(37)
炊事場跡で遺骨が見つかる。

長女 笑(えみ)子 長女 笑(えみ)子(16)
広島女子商業学校3年母のそばで遺骨を確認。

長男 満夫 長男 満夫(9)
熊野国民学校4年父の郷里に疎開していたが、夏休みになったため8月1日に帰宅。玄関跡で、子どもとみられる遺骨を確認。
藤井 養助 藤井 養助(53)
藤井商会創設した革屋町(中区本通)のせっけん会社で遺骨が見つかる。自宅は中島本町20番地の1妻と娘の4人。県立第一高女(現・皆実高)3年の長女と2年の二女は、動員先の広島航空(西区)で被爆。中島国民学校6年の三女と3年の長男は双三郡三良坂町の学童疎開先の一つ、光善寺にいた。長男は「秋が過ぎても迎えが来ない児童は15人くらいいたでしょうか。その心細い気持ちは言いようがありません」。

妻 ヒサヨ 妻 ヒサヨ(40)
留守を預かっていた夫の兄宅、堺町1丁目23番地の1で爆死。戦後の整地により遺骨が見つかる。

藤井 末治郎 藤井 末治郎(44)
藤井商会町内の防衛隊長として爆心900メートルの小網町 (中区)一帯の建物疎開作業に出て、全身やけどを負いながら歩いていたところを妻の兄が見つけ、佐伯郡の大野陸軍病院に収容。9日死去妻子4人は3月、佐伯郡観音村(佐伯区)に疎開していた。観音国民学校4年だった長女は「一家の大黒柱を失った私の戦後は、死ぬまで終わりません」。
橋本 ウメ(50代後半)
表装材料販売「紀坂商店」中島本通りに面する店跡で、いとこの妻の弟が遺骨を確認。(注・遺影なし)

いとこ 本田 徳一 いとこ 本田 徳一(42)
県警察部情報課長水主町(中区加古町)の課長公舎が7月末に建物疎開となり、間借りしたウメ宅で爆死妻子4人は、安佐郡祇園町(安佐南区)に疎開。88歳になる妻は「夫は官服の肩章、母は弟が贈ったステンレス製の指輪で遺骨が分かっただけでも幸せです」と、今も新婚時からのケヤキのたんすを使う。

徳一の義母 山口 イワ 徳一の義母 山口 イワ(52)
ウメ宅で爆死祇園町から5日夜、長女の夫、徳一の身の回りの世話をするため泊まりがけで来ていた。
古本 露子 古本 露子(32)
中島本町12番地の自宅から、安芸郡蒲刈町の疎開先に向かう途中に被爆。遺骨は不明子どもと義母の6人がいた疎開先に、市から天神町(現・平和記念公園)に持つ貸家が建物疎開になるとの通知を受けて5日、長男を連れて帰宅した。広島地区特設警備隊に召集されていた夫は、江波町(中区)で被爆。

長男 忠義(5カ月)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
岸本 秀子 岸本 秀子(31)
数珠店中島本町21番地の1の自宅から建物疎開作業に出たらしい。遺骨は不明三女と義母の3人が爆死。遺影は、中島国民学校6年と4年の娘2人が双三郡三良坂町へ学童疎開する直前に、母子4人が町内の写真館「スター」で撮影したもの。長女は「疎開先への面会が許され、会えたのは一度だけでした」。42年病死した夫の兄、丸子健造と秀雄も爆死。

三女 千恵子 三女 千恵子(8)
中島国民学校2年慈仙寺にあった分散教室で爆死したとみられる。遺骨は不明。

義母 セイ 義母 セイ(66)
毎月6日は、おいに当たる秀子の夫の命日に当たるため、油屋町(中区猫屋町)の寺へ墓参りしていた。遺骨は不明。
高橋 慎一(53)
薬剤・診療「キク薬局」中島本町23番地の1の店から中島地区にあった警防団の詰め所に出て被爆し、57年5月14日、尿毒症などを患い死去23番地の1と102番地で店を開いていた。妻と長女は宇品町(南区)の別宅で被爆、長男は疎開していた。(注・遺影なし)

種橋 政一(49)
とび職西練兵場(中区基町)で爆死したらしい。遺骨は不明中島本町23番地の1の「キク薬局」に間借りしていた。46年に復員した二男が捜し続けた末、8年後に死亡届を出す。(注・遺影なし)
大畑 マサヱ(39)
遺骨は不明中島本通りの履物「沖田商店」に住んでいた5人家族のうち4人が死去。げた職人の夫は、福岡県の妻の実家を訪ねていた。夫は49年1月17日、三原市内の山中で亡くなっているのが見つかる。47歳。(注・遺影なし)

長女 トシ子 長女 トシ子(19)(左)
広島鉄道局勤務宇品町(南区)の事務所へ行く途中の市内電車で被爆。世羅郡西大田村(世羅町)から捜しに来た祖父が救護所で見つけて連れ帰るが、14日死去。

二女 マサ子(14)(右)
山中高女2年遺骨は不明。大畑家の墓をみる叔母に7年前、マサ子の元同級生から手紙が届く。「雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業に動員されてその日、宇品町の広島陸軍共済病院(現・県立広島病院)で死んだそうです」。

長男 俊穂(5)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
二井谷 敏夫と妹 二井谷 敏夫(26)(右)
綿布卸「二井谷合名会社」会社は中島本町25番地。5日夕、両親ら家族6人がいた古田町古江(西区)の別宅を訪ねて「のどが乾いた」と、妹春子と砂糖水を飲む。元柳町1番地(平和記念公園西側)の本宅で爆死。

定期乗車券 妹 春子(12)(左)
広島女子高付山中高女1年爆心1・1キロの雑魚場町の建物疎開作業に出て、運ばれた似島で9日死去。広島駅裏の東練兵場近くで被爆した父が、通学定期=写真=を遺骨とともに持ち帰る。
久保木 利三 久保木 利三(33)
文房具卸「久保木合名会社」中島本町25番地の自宅玄関跡で、 遺骨を確認。5日、「肉が手に入った」と妻子5人が疎開していた賀茂郡竹原町(竹原市)を訪ねるが、その日のうちに戻った「ハナちゃん」(推定20代)と呼ばれていた竹原市出身のお手伝いは、県庁があった水主町(中区)一帯の建物疎開作業へ出て亡くなったとみられる。
藤本 クヨ 藤本 クヨ(43)
藤本製菓中島本町28番地の自宅で爆死夫と長男の3人。夫は 早朝、おいが疎開していた島根県瑞穂町へ自転車で向かう途中の安佐郡鈴張村(安佐北区)できのこ雲を見る。8日、自宅跡で遺骨を確認。

長男 哲男 長男 哲男(25)
広島陸軍被服支廠(しょう)勤務自宅で爆死したとみられる。
菅 静子 菅 静子(12)
安芸高女(52年廃校)1年遺骨は不明。1・2年生237人は小網町(中区)一帯の建物疎開作業に動員されて全滅中島本町31番地で糸問屋「天満屋」を営んでいた両親や弟、妹の6人で45年3月、佐伯郡宮島町に疎開していた。弟は「母は92歳で死んだ昨年まで姉静子の遺骨を捜していました」と言う。
定政 文夫夫婦 定政 文夫(45)(右)
食料品販売「フジヤ」中島本町40番地の1の自宅で爆死4人。米シアトルから37年帰郷し、店を開く。広島一中(現・国泰寺高)3年の三男は、建物疎開作業に動員された爆心1・5キロの鶴見町(中区)でやけどを負いながら帰宅し、中島本通りから慈仙寺鼻と爆心地を歩く。二男は神戸市垂水区の海軍経理学校にいた。48年米国に戻り、カリフォルニア州に住む三男は「私の心の平和は、この世界を去る時に来ると思います」。

妻 千代子(39)(左)
爆死。体調を崩し自宅で寝ていた。

長女 恵美子 長女 恵美子(20)
広島女学院専門学校(現・広島女学院大)英文科3年爆死。第二総軍が、米国生まれの女子学生を集め、1班約15人による24時間3交代制で短波傍受に当たる「特情班」に動員されていた。爆心1・4キロの泉邸(中区・縮景園)にあった。
後藤 三郎
ローヤル薬局
後藤 三郎(43)
ローヤル薬局中島本町42番地の1の店舗=写真=が7月ごろ取り壊しとなり、近くの転居先で遺骨を確認妻と子の4人。大分県別府市から捜しに来た弟が8日過ぎ、焼け残っていた壁に、長男と市立中(現・基町高)3年の二男が記していた避難先の伝言を見つけて佐伯郡平良村へ。

ローヤル薬局 妻 義子(39)
義弟が炊事場跡で遺骨を確認。

長男 昭 長男 昭(18)
日本銀行広島支店勤務爆心380メートルの袋町(中区)の勤務先で被爆。全身にやけどを負いながら平良村まで逃げる。叔父が連れ帰った別府市で9月3日死去。
死没者の氏名(年齢)
職業被爆死状況死没者の氏名(年齢)職業被爆死状況45年8月6日の居住者と、ほかの家族らの被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。(敬称略)

橋本 初太郎 橋本 初太郎(63)
呉服「おうばん屋」中島本町40番地の1の自宅で爆死妻や応召中の長男の家族がいた古田町古江(西区)から5日夜、帰宅していた。遺骨は46年3月ごろ、集産場跡で「めさまし食堂」を再開した井村の長男が見つけて家族に連絡。

孫 洋子 孫 洋子(3)
母と8日から約1週間、中島本町を歩く。21日死去。85歳になる母は「長女は高熱が出て、チョコレート色のような血の塊を吐いて死にました」。
木原 真一(48)
妻 政子(42)
三男 寛(4)
かもじ・化粧品「廿日市屋」中島本町46番地の自宅が建物疎開と決まり、本通り北側の転居先で爆死。(注・遺影はいずれも7月13日付の「中島本町Ⅰ」編で掲載)
土肥 ヨヲ(60)
孫 菊枝(12)
洋反物店「大津屋」中島本町48番地の自宅から本通り北側の別宅に転居。ヨヲは別宅で、菊枝は建物疎開作業に出た小網町(中区)で被爆し、遺骨は不明。(注・同)
近藤 竹寿 近藤 竹寿(43)(右)
安珍食堂中島本町41番地の自宅が建物疎開となり5日、疎開先の安佐郡八木村(安佐北区)から三女を連れて戻り爆死。夫の届けによる死亡場所は、転居のため借りた隣町の「材木町34番地」夫は三篠方面(西区)の靴工場に出て被爆、八木村にいた国民学校6年の長男と7日、自宅付近を捜す。長男は「えびす神社の境内に深い防空壕を掘っていましたが、遺体は一つもありませんでした。逃げる間もなかったのでしょう」。

三女 静(6)(左)
母とともに爆死。

義理の姉 千代 義理の姉 千代(51)
竹寿と引っ越し作業をしていたらしい。
郷本 操子 郷本 操子(38)
奴食堂爆死。近藤竹寿の姉で、安珍食堂の斜め前でおでん屋を営んでいた。
池田 隆一(38)
「天城旅館」調理師遺骨は不明妻と子の3人家族が全滅。中島本町で一時暮らした、高松市に住む妻のいとこの娘は「マサさんの一家はお墓もなく、お参りは平和記念公園にしています」と言う。旅館は元安川右岸の公園内、旧天神町59番地にあった。(注・遺影なし)

妻 マサ 妻 マサ(45)
遺骨は不明。

長女 澄子 長女 澄子(9)
本川国民学校遺骨は不明。
米原 耕作 米原 耕作(43)
米原時計店。元千田国民学校教諭中島本町40番地の1の自宅で爆死したとみられる妻と母の3人で44年末、己斐町(西区)に疎開先を借り、店に通っていた。妻の弟が7日、自宅跡に散乱していた白骨を納める。

妻 ミ子 妻 ミ子(ね)(40)
遺骨は不明。天満町(西区)で家具百貨店を営んでいた父の井口富吉(61)も爆死。
森 次郎 森 次郎(61)
宮島細工卸・販売「森光商店」在郷軍人会中島分会長として詰めていた爆心1キロの市役所地下室で被爆し、住民の消息確認や焼け跡整理に努める。自宅は中島本町40番地の1。役員を務めていた「広島集産場土地建物株式会社」の再建に取り組むが、49年6月29日死去妻や二男の妻子との5人。

妻 ミネ(55)
遺骨は不明。(注・遺影なし)

三男の妻 和子 三男の妻 和子(21)(左)
東京から子ども2人と賀茂郡西志和村(東広島市)に疎開。長女が体調を崩し、4日訪ねてきた義父に伴われ来ていた東京から17日着いた夫は「台所跡で和子、居間跡で寝ていた久子の小さな骨を見つけたと、涙まじりの父から聞きました」。

和子の長男 肇 和子の長男 肇(2)
遺骨は不明。祖母に連れられ散歩に出たらしい。

和子の長女 久子 和子の長女 久子(11カ月)(右)
爆死。
国田 勝江
燃料会館
国田 勝江(23)
県燃料配給統制組合勤務中島本町の燃料会館(現・レストハウス)=写真=で爆死8日ごろ捜しに行った妹は「職員と思われる男性から、幾つかに分けてあった遺骨の一つを受け取りました」29年建設された鉄筋3階建ての「大正屋呉服店」は44年、組合と産業設備営団広島出張所に。地下室にいて唯一助かった野村英三氏(82年死去)が50年に寄せた広島市編さんの「原爆体験記」によると、37人が出勤。営団は、午前9時が始業で職員はいなかった。

室賀 文枝 室賀 文枝(22)
遺骨は不明。同じ西引御堂町(中区十日市町)に住む、いとこの国田と毎朝連れだって出勤していた。

賀中 昇 賀中 昇(48)
燃料会館の近くで背中にガラス片が突き刺さって倒れていたのを、捜しに来た親族が大八車に乗せて観音本町(西区)の自宅へ 連れ帰る。14日死去。

広末 ツヤ子 広末 ツヤ子(26)
勤務中に爆死。遺骨は不明。

竹本 ムツミ 竹本 ムツミ(21)
同僚の女性職員と2人で安佐郡古市村(安佐南区)の救護所にたどり着き、父親が連れ返った落合村(安佐北区)で16日死去。姉は「家族にみとられたのが、せめてもの慰めです」同僚職員は9日、落合村から自宅がある薬研堀町(中区)へ引き取られて後に亡くなったという。氏名は不明。

武田 国松(69)
爆死。(注・遺影は7月13日付の「中島本町Ⅰ」編で掲載)

木村 方子(24)
組合で爆死。父と弟が7日遺骨を納める。(注・遺影は97年7月23日付の「ドームの街猿楽町」編で掲載)
上田 謹吾 上田 謹吾(40)(中)
古本「上田書店」中島本町40番地の1の自宅で爆死。遺骨は不明妻と子の4人が死去。国民学校2年の長女は、佐伯郡砂谷村(湯来町)の伯父宅に疎開していた。「中島に7日入った伯父から家族全滅を聞きましたが、どうしても信じられず、家へ連れて行ってほしいとせがみました」

妻 ユキ子(33)(左)
遺骨は不明。9月に出産を控えていた。

長男 省三(14)(右)
市立中(現・基町高)2年爆心900メートルの小網町(中区)の建物疎開作業に出て遺骨は不明。5日、砂谷村へ自転車で米を取りに訪れる。伯母が泊まっていくよう勧めるが「明日は朝から動員作業があります」と戻った。

二女 範子(2つ)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
井上 喜三郎 井上 喜三郎(43)
カフェー「ミス天国」遺骨は不明。自宅は中島本町40番地の1妻と長男の3人。広島鉄道局勤務の長男は6日、モモを買い出しに行った岡山から戻り、燃料会館で一夜を過ごす。佐伯郡水内村(湯来町)に疎開していた5歳の弟の親代わりとなった長男は闘病中で、娘は「当時のことを聞くと涙を流すばかりで…。2年前に亡くなった叔父とはきょうだいのように育てられました」。

妻 キヌヨ 妻 キヌヨ(38)

 遺骨は不明。
免出 笹市 免出 笹市(47)
「ホシ」「スター」写真館中島本町40番地の1の「ホシ」で、一家全滅。笹市のいとこは「焼け落ちたちゃぶ台を囲むように4つの遺骨があったそうです」。

妻 スヱコ 妻 スヱコ(39)(右)
爆死。

長女 美津子(22)(中)
家事手伝い爆死。

三女 源子(18)(左)
家事手伝い爆死。
神岡 美代子 神岡 美代子(27)
「配給食堂」集産場の元「かもめ食堂」跡で、姉が花柄ブラウスの切れ端により遺骨を確認5人姉妹で営んでいた「かもめ食堂」が44年ごろ、配給統制で続けられなくなり閉店。町内の飲食店十数軒が集まった「配給食堂」に移り、高田郡向原町の自宅から通っていた。妹は「8月6日の平和式典が済み、店があった辺りの『平和の池』に腰掛けると、どうしても涙を抑え切れません」。
井村 一見 井村 一見(52)
めさまし中島食堂中島本町40番地の1の自宅跡で、金歯により遺骨を確認妻と義理の息子の3人が全滅。46年1月復員し、集産場跡で食堂を再開した長男は「がれきの中でただ一人、隣の井上さんの息子が線路のまくら木を柱にバラックを建てて住んでいた。互いに駆け寄り、言葉は続かなかった」。

妻 智恵子(40)
3階建ての店の炊事場跡で遺骨を確認。(注・遺影なし)

義理の息子 浅野(不明)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
阪本 環 阪本 環(49)
阪本調髪所賀茂郡西条町(東広島市)に疎開していた16歳のめいが7日、中島本町40番地の1の店跡で遺骨を確認妻と子の3人が全滅。

妻 イワ 妻 イワ(42)
めいが7日、相生橋たもとの通称「慈仙寺鼻」の防空ごうに倒れていたのを見つけ、1日がかりで西条町に連れて帰るが、傷痍(い)軍人広島療養所(現・国立療養所広島病院)で9日死去。

長女 昭子 長女 昭子(13)
市立第一高女(現・舟入高)1年元安川に架かる爆心420メートルの新橋から南側一帯の建物疎開作業に動員され、同級生276人とともに爆死。75年ごろ、平和記念公園の原爆供養塔内に遺骨があるのが分かった。阪本夫妻のめいで、昭子の姉が縫い付けていた名札が確認の決め手だった。
河村 政吉(66)
三男 博夫(13)
五女 泰子(4)
河村米穀店天神町130番地の自宅が建物疎開となり7月、坂本調髪所そばに転居していた。(注・遺影は、いずれも98年12月15日付の「天神町南組」編で掲載)
瀧本 一子 瀧本 一子(40)
看護婦中島本町54番地の2の原田外科病院=写真=で看護婦長を務めていたが、病院が立ち退きとなり、爆心1・5キロの広島赤十字病院に移ったらしい。遺骨は不明。

原田外科病院
谷口 祥一郎 谷口 祥一郎(52)
第一印刷課長中島本町40番地の自宅で爆死妻と子の4人家族が全滅。佐伯郡五日市町(佐伯区)の親類宅から、古田町古江(西区)の美術印刷会社に出勤し、妻子3人は豊田郡小泉村(三原市)の妻の実家に疎開。5日、残りの家財道具を小泉村に移すため、家族全員で帰宅したらしい。

妻 ミツエ 妻 ミツエ(34)
中島美容院爆死。家族の墓をみる弟は「私が復員後に聞いた話では、姉はうつぶせになっていたため、おなかの部分が焼け残り、義兄らは全身が黒焦げ。それを手掛かりに、遺骨を判別したそうです」。

長男 泰祥 長男 泰祥(3)
爆死。

二男 博信 二男 博信(2)
爆死。


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