中国新聞社

99/8/03

ヒロシマの記録-遺影は語る  中島本町Ⅱ


死没者名簿(続)


河野 修司 河野 修司(56)
河野印判店中島本町40番地の1の自宅で爆死したらしい妻と子の家族3人が全滅。修道中3年で、爆心2・8キロの広島陸軍兵器補給廠(南区霞町)で被爆したおいは「かわいがってくれた伯父一家の遺骨は見つからず、原爆供養塔の納骨名簿が掲示されるたびに名前を捜しています」。

妻 コハナ 妻 コハナ(46)(右)
爆死。

長女 美代子(22)(左)
家事手伝い爆死。
有冨 タカ子 有冨 タカ子(27)
夫が戦地へ出た後、母が中島本町60番地で営む「加川旅館」を手伝う。建物疎開となった旅館の荷物を古田町古江の別宅から取りに行く途中に被爆し、46年5月28日死去夫は47年中国から復員し、一緒に住んだ義母と再婚した妻とともに旧住民の慰霊法要に出席し、4年前に死去。

鉾平ハマノ
鉾平ハマノ(不明)加川旅館従業員旅館で爆死したとみられる。
松山 コミヅ 松山 コミヅ(40)
うちわ製造・卸「松山商店」中島本町40番地の2の自宅で爆死長女と2人。佐伯郡水内村(湯来町)の軍需工場に徴用されていた夫が8日、自宅跡で遺骨を見つけ、大きな骨は布にくるんで納め、小さな骨は砕いて元安川に流す。

長女 凉(すず)子 長女 凉(すず)子(18)
爆死。
野間 久子 野間 久子(13)
市立第一高女2年現在の平和記念公園南側一帯の建物疎開に動員され、遺骨は不明母と兄が6月まで、桜湯の一角でうなぎ店「野間」を営んでいた。三菱重工業広島造船所で被爆して7日、捜しに入った5つ違いの姉は「皆やけどで顔の区別はつかず、妹が着ていたかすりのもんぺの切れ端を見つけ、お墓に入れました」。いとこで同学年の野間昭子(13)も行方不明
野田 モト 野田 モト(53)
野田商事合資会社中島本町の自宅で爆死。炊事場跡で遺骨が見つかる長女と2人。細工町(中区大手町1丁目)で紙の販売と印刷をしていた会社兼自宅が7月初め、建物疎開で立ち退きとなり、中島本町へ移転していた。

長女 和子 長女 和子(25)
県内政部職員洗面所の跡近くで遺骨を確認佐伯郡玖島村(佐伯郡佐伯町)の伯母宅に一時いたが7月末ごろ、迎えに来た母と中島本町に戻った。

前浜 菊次郎(48)
野田商事勤務爆死。妻らが、会社跡で印刷機にもたれかかっていた遺骨を見つける自宅は東観音町2丁目(西区)。長女の安田高女1年の年子(12)は、平和記念公園となった材木町での建物疎開作業中に爆死。(注・遺影なし)

坂根 義雄(34)
野田商事勤務遺骨は不明東観音町1丁目623番地の自宅から毎朝7時ごろ、歩いて出勤。母ハル(54)は自宅近くの爆心1・25キロの観船橋で被爆し、9月5日死去。弟の保雄(29)は自宅で被爆し、10月18日死去。(注・遺影なし)
川野上 兵八 川野上 兵八(50)
桜湯中島本町63番地の自宅で爆死。遺骨は、夫の郷里の御調郡に疎開していた長女が、自宅前の防火水槽跡近くで金歯により確認妻、長女の夫と3人。妻は安芸郡江田島町の郷里に出掛けていた。

長女の夫 斉 長女の夫 斉(30)
日本発送電中国支店(現・中国電力)勤務遺骨は不明。爆心900メートル、中区大手町3丁目にあった中国5県の発電・送変電を統括した支店は出勤者117人のうち生存者は2人。
初田 アイ 初田 アイ(73)
中島本町65番地の自宅で爆死したとみられる息子と3人が全滅。孫らは「結婚して中沢姓となった四女シズも実家で原爆に遭い、亡くなったかもしれないが、今となっては断言できません」

長男 清太郎(39)
遺骨不明。(注・遺影なし)

二男 正太郎 二男 正太郎(36)
船員遺骨は不明。
吉原 実蔵 吉原 実蔵(57)(左)
回漕と薪炭「統一商会」中島本町62番地の自宅で爆死妻と2人。高田郡高宮町に疎開していた長女が、3歳になる娘を背負って8日捜しに来る。80歳になった長女は「上半身だけになっていた遺体の口をこじ開け、歯並びで両親を確認しました」。

妻 アイ(54)(右)
爆死。
吉田 善一 吉田 善一(58)
うなぎや魚善集産場内の店舗跡で遺骨を確認1人暮らし。店を手伝っていた義理の妹が保存する「広島集産場土地建物株式会社」による家賃は月額23円97銭。料亭にも出張した。
三原 利郎夫婦 三原 利郎(54)(左)
三原商店小間物を扱っていた中島本町40番地の1の自宅で爆死 妻と長男の妻子の5人のうち4人が死去呉海軍工廠に徴用されていた長男は、夜勤明けの帰宅途中に被爆し、その夕自宅跡に入る。山県郡千代田町に住むおいは「叔父は9日、家族の遺骨を納めた小さな空き缶を胸に抱いて帰ってきました。原爆のことは、死ぬまで話したがりませんでした」。長男は93年死去。

妻 ツルヨ(49)(右)
孫とともに山県郡千代田町の実家へ疎開していたが、長男が広島に駐在した西部第二部隊への召集を受けため5日、野菜を携えて自宅に戻った。

長男の妻 チサ子(27)
爆死。(注・遺影なし)

チサ子の長男 重文 チサ子の長男 重文(3)
祖母とともに自宅へ戻り、爆死。
川本 護 川本 護(42)
中島ホテル爆死。経営していたホテル跡に2体の遺骨があり、住み込み女性従業員「タマ子」とみられるが、詳細は不明妻子と母の7人は、6月に佐伯郡湯来町に疎開していた。9日捜しに戻った90歳になる妻は「ホテルは、宇品港から出征する兵隊さんの宿所になっており、夫は軍の命令で疎開できませんでした」。
野口 孫一(42)
調理師遺骨は不明。「配給食堂」2階に住み、近くの「交楽座」(元世界館)で食事の世話をしていた家族6人が全滅。同居していた妻の妹は長女を連れ、勤めていた爆心2・2キロの広島地方専売局(現・日本たばこ産業)で被爆。妹は「交楽座には、歌手の淡谷のり子さんらが慰問公演に来ていました」。(注・遺影なし)

妻 高木 与ネ 妻 高木 与ネ(34)
遺骨は不明。

長女 政子(9)
中島国民学校遺骨は不明。(注・遺影なし)

二女 静子(7)
中島国民学校遺骨は不明。(注・遺影なし)

長男 弘(5)
遺骨は不明。(注・遺影なし)

二男 和男(2)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
市坂 勘一 市坂 勘一(51)
薪炭・氷販売遺骨は不明木挽町49番地(平和記念公園)の自宅が3月、建物疎開となり「魚善」の隣に転居。妻子5人は佐伯郡水内村へ移った。中島国民学校3年だった長男は「夏はかき入れ時で、中島の病院や商店に氷を切って卸していました」。
中本 勝雄 中本 勝雄(40)
劇場「交楽座」爆心1キロの舟入町39番地の自宅で爆死。集産場に広島初の活動写真常設館として1910(明治43)年できた「世界館」(27年に洋画専門の「昭和シネマ」と一時改称)、太平洋戦争中は慰問芝居でにぎわった「五色劇場」、最後は「交楽座」と呼ばれた劇場の経営を引き継ぐ自宅では長女麗子(20)も爆死し、妻綾子(37)は9月3日、長男昭仁(18)は10日死去。
三浦 静枝(30代後半)
喫茶「気まぐれ」集産場にあった店で爆死したとみられる夫と2人。夫は兵役でいた草津方面(西区)で被爆。(注・遺影なし)
神明耕三(54)
朝日メッセンジャー中島本町の自宅で爆死妻と娘の3人が全滅。安芸郡戸坂村(東区)から米国へ渡り、帰郷後は自転車で荷を運ぶ事業を営んでいた。爆死した高橋フジコの伯父。(注・遺影なし)

妻 フサ子(不明)
朝日婦人ホーム爆死。家政婦の派遣をしていた。(注・遺影なし)

長女 瞳(3)
爆死。(注・遺影なし)
岸本 浩三 岸本 浩三(14)
崇徳中3年動員中の三菱重工業第二〇製作所(安佐南区)から交代で出た小網町(中区)の建物疎開作業中に被爆。3日後、家族が疎開中の豊田郡安浦町に着くが、9月5日死去自宅は中島本町26番地で酒・しょうゆの特約販売をしていた。52年自宅跡に原爆慰霊碑が建立された際、溶けたビンが大量に見つかる。崇徳中の学徒動員犠牲者は、小網町での55人を含む計512人。
吉田 彦太郎 吉田 彦太郎(50)
「よしのや」武道具店中島本町の自宅で爆死。遺骨は不明妻と2人。妻は6日早朝、針を打ってもらうため仁保町(南区)に行っていた。
高橋 フジコ 高橋 フジコ(36)
爆死。中学2年の長男と国民学校1年の二男が8日、中島本町26番地の自宅跡で、二つの小さな遺骨と、覆いかぶさるようになっていたフジコの遺骨を確認空襲が続く東京から5月末、子ども4人を連れて帰郷。安芸郡戸坂村の親類宅から6日早朝、長女らを町内の越智小児科へ連れて行くため帰宅していた。

長女 昭代 長女 昭代(2)
爆死。

三男 章(生後2カ月)
爆死。(注・遺影なし)
中野 峯吉 中野 峯吉(56)(左)
「中野屋」靴店中島本町67番地の自宅で妻と二女、応召中の長男の妻子5人の計8人が爆死結婚して福山市にいた長女と呉の海軍にいた長男が8日、一緒に駆け付け、自宅裏の井戸跡で父のきん着袋を見つける。長女は「家族の形見だと今も大切に持っています。遺骨は数体ありましたが、どれがだれかのものか、分かりませんでした」

妻 トヨ(54)(右)
爆死。

長男の妻 スヱコ(34)
爆死。(注・遺影なし)

スヱコの長女 昌子 スヱコの長女 昌子(11)
中島国民学校6年登校していたらしく遺骨は不明。

スヱコの二女 治子(8)
中島国民学校3年遺骨は不明。(注・遺影なし)

スヱコの三女 紀代子(5)
自宅で爆死。(注・遺影なし)

スヱコの四女 和子(2)
自宅で爆死。(注・遺影なし)

二女 弘恵 二女 弘恵(25)
自宅跡に愛用のヘアピンがあった。結婚して岩国市にいたが、いとこの夫が応召となり実家に戻っていた。
大松 孫三郎 大松 孫三郎(43)
仕出し「大仁」中島本町72番地の自宅で爆死。9日、頭部が配達用自転車のサドルの上にあり、下腹部が地中に埋まった状態で見つかる妻と長男の3人。動員先の東洋製罐(西区天満町)で被爆した山陽中2年の長男は「家を出る時、両親は県庁から注文があった弁当50人分の準備をしていました」。

妻 カツヨ 妻 カツヨ(40)
爆死。長男が、テーブル大のまな板の下にあった遺骨を確認。
死没者の氏名(年齢)
職業被爆死状況1945年8月6日の居住者と、ほかの家族らの被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく(敬称略)

諏訪 令海 諏訪 令海(57)
浄土真宗本願寺派「浄宝寺」住職中島本町69番地の寺を訪ねた安佐郡緑井村(安佐南区)の知人に「法要があるから外出する」と伝えた。遺骨は不明4人家族のうち3人が死去。中島国民学校6年の四男は、学童疎開先の双三郡三良坂町から9月に戻り、53年に寺を再興。毎年8月6日の「旧中島本町追悼法要」のつとめを続ける。

妻 クニ 妻 クニ(56)
緑井村に疎開し毎朝、寺に戻っていた。遺骨は不明。

長女 玲子 長女 玲子(16)
安芸高女(52年廃校)4年爆心1・5キロの東洋製罐広島工場で下敷きとなり、昼すぎに死去。
沼田川 助造 沼田川 助造(57)
ブリキ細工「宮崎文吉商店」45年1月の浄宝寺庫裏からの火事で、中島本町71番地の自宅が焼け、転居した材木町25番地で爆死。遺骨は小さな骨と混じり合っていた。長女は「きっと孫娘を抱いていたんでしょう」二女の家族や叔母の5人。統制経済で店を閉め、日本製鋼所広島製作所(安芸区)に勤めていたが、6日は電休日で自宅にいた。

叔母 大野 トモ 叔母 大野 トモ(64)
台所跡で、座ったままの白骨体が見つかる。夫や息子たちが相次いで病死、戦死して一人になり、おいの助造宅に移っていた。

孫 持田 陽子 孫 持田 陽子(1)
祖父と一緒に爆死。二女の二女母と姉は6日早朝、米の買い出しに行く途中の芸備線戸坂駅で被爆。
藤本 シスノ一家 藤本 シスノ(60)=左から2人目
遺骨は不明。応召中の長男の妻子がいた高田郡吉田町に疎開していたが、長女が中島本町68番地で営む喫茶「アキヅキ」に戻り、泊まっていたらしい。

長女 初子(39)=左端
遺骨は不明。大正末期の26年に創業した広島初の洋菓子製造店「アキヅキ」を41年に取得し、母や妹、弟の手伝いを得て経営していた。

二女 寿美枝(23)=中央後ろ
遺骨は不明。

四男 周三 四男 周三(27)
遺骨は不明。集産場の劇場事務所2階に住み、最後は「交楽座」となった「世界館」など映画館の看板をかいていた妻と子の家族5人が全滅。

周三の妻 澄江(29)=右から2人目
遺骨は不明。4人目の出産を控えていた。

周三の長女 聖子(6)=中央手前
中島国民学校遺骨は不明。

周三の長男 佳紀(よしとみ)=(4)=右端
遺骨は不明。

周三の二女 昭子 周三の二女 昭子(2)
遺骨は不明。

三男 美徑 三男 美徑(37)
爆心2キロの千田町(中区)の自宅で被爆し、53年11月12日死去。アキヅキの材料仕入れを手伝っていた。

美徑の妻 静子 美徑の妻 静子(27)
夫と一緒に被爆し、51年10月26日死去90歳になるシスノの長男は「体がいうことをきていたころは毎週日曜日、原爆慰霊碑に参っていました。アキヅキのコーヒーとパンはうまいと評判だったのに、つまらんことになってしもうた…」。
松野 賀(しげ)之助 松野 賀(しげ)之助(56)
松野理髪店西観音町2丁目(西区)の自宅から吉島本町(中 区)にあった広島陸軍飛行場へ徴用で兵士たちの散髪に行き、被爆。56年9月12日、肝臓がんで死去父の代から中島本町106番屋敷で理髪店を営んでいたが、浄宝寺の火事で転居した。

妻 あさ子 妻 あさ子(不明)
県庁付近の建物疎開作業に出て、遺骨は不明。店を継いだ元の弟子が、夫婦の墓を毎週参る。
吉村 八重子 吉村 八重子(16)
実践高女(鈴峯女子高)4年学徒動員で舟入川口町(中区)の ゴム工場に市内電車で向かう途中に被爆。父が6日夜、広島富国館(中区袋町)の地下に収容されたとの連絡を受けて捜したが、遺骨は不明浄宝寺庫裏からの火事で、家族6人がいた中島本町71番地の借家が延焼し、南千田町(中区)に転居していた。
南草 千浪 南草 千浪(34)
中島本町74番地の自宅で爆死夫と子どもとの6人のうち5人が死去。夫は徴用先の爆心5・3キロの東洋工業(現・マツダ)の鋳物工場で被爆。中島国民学校3年の三男は双三郡三良坂町に学童疎開していた。

長男 馨 長男 馨(15)
本川国民学校高等科2年遺骨は不明。爆心直下の細工町(中区大手町1丁目)にあった広島郵便局で集配作業をしていた。動員された本川国民学校の児童・生徒17人を含む広島郵便局の爆死者は288人。

二男 実 二男 実(12)
第二国民学校高等科(現・観音中)1年遺骨は不明。学徒動員で平和記念公園の南側地区に当たる木挽町の建物疎開作業に出ていた。現場にいた生徒234人は全滅。

長女 美枝子(7)
中島国民学校2年中島本町38番地の慈仙寺にあった分教場で爆死。父が遺骨の山から骨を持ち帰る。(注・遺影なし)

二女 美佐子(2)
母とともに爆死。(注・遺影なし)
勇知 昭江 勇知 昭江(17)
広島女子商業学校2年の時、中島本町76番地の自宅から爆心1・6キロの広島貯金支局へ学徒動員で出て被爆し、両親が宇品町(南区)で営む雑貨店までたどり着く。49年11月23日死去血だらけの姉を出迎えた弟は「戦後いったんは復学しましたが、洗面器に血を 吐くようになり原爆症で死にました」。

小山 美智子 小山 美智子(27)
小網町(中区)の建物疎開作業に出て被爆し、姉が連れ帰った古田町古江(西区)の自宅で、その夕死去。生後間もない一人娘「ひろこ」に授乳すると、焼けただれた胸の皮膚がはがれた実家は中島本町76番地で「中尾薪炭店」を営み、番頭の勇知に店を譲り、古 田町に転居していた。
丸子 健造 丸子 健造(54)
扇子販売「丸子多三郎商店」中島本町73番地の自宅で被爆し、100メートル先の本川橋東詰めの防空ごうで7日死去牛田町(東区)にいた弟親子が8日、大八車で収容に。おいは「健造さんの背中はべったり焼けてなかったが、口の周りには、むすびの粒があり、水を飲んだと思われる欠けた茶わんがそばにありました」。妻は、学童疎開していた二男の病気を聞いて5日、双三郡田幸村(現・三次市)へ。

二女 芳枝 二女 芳枝(21)
日銀広島支店勤務遺骨は不明。

弟 秀雄 弟 秀雄(33)
「丸子」写場堀川町(中区本通)にあったキリンビヤホール裏の写真館で爆死したとみられる。遺骨は不明。

おい 多三郎 おい 多三郎(33)
中国海軍監督官事務所勤務爆心200メートルの事務所で爆死。
立野 俊太郎 立野 俊太郎(43)
材木商中島本町77番地の自宅跡で、天井梁(はり)の下敷きとなり、焼け残ったズボンのポケットから焦げた札束が見つかる妻子との5人が爆死。長女ら3人は5月、妻の実家があった安佐郡川内村(安佐南区)に疎開していた。

妻 初子 妻 初子(32)(中)
父が自宅跡で愛用のヘアピンにより遺骨を確認。

長男 周一 長男 周一(14)
県立広島商業2年皆実町(南区)の県立広島師範学校(現・広島大)に移転していた学校に向かう途中に被爆し、行方不明。

二男 武二(11)(左)
中島国民学校6年爆死。祖父が居間跡付近で小さな2体の遺骨を確認。

三男 光三(11)(右)
広島師範付属小(現・広島大付東雲小)6年学校帰りに中島本町へ連日立ち寄り、家族の骨を拾う。47年5月30日死去。一緒に暮らしていたいとこは「『お父さんやお母さんが粗末になったらいけん』と通い続けました。自宅跡を掘り返すたびに毒を吸い、原爆 症にかかったのだと思います」。

二女 博子(11カ月)
爆死。8日が満1歳の誕生日だった。(注・遺影なし)
坂本 昇市 坂本 昇市(51)=後ろ
綿布卸「坂本商店」統制経済により山口県内の炭鉱に勤めていたが5日、中島本町79番地に帰宅して爆死妻と3姉妹の5人家族のうち4人が死去。21歳の長女は爆心4・6キロの宇品凱旋館(南区)にあった陸軍船舶司令部で被爆。「思い出したくないから子や孫に原爆のことは話しません。しかし、54年たとうと忘れてはおりません」。

妻 ハツ子(44)=手前左
遺骨は不明。通りを隔てた材木町の山田履物店へ電話の呼び出しに行ったらしい。

二女 一枝(18)=手前右
叔母がいた三篠本町(西区)に泊まり朝、帰宅して爆死。山中高女を卒業後、日本製鋼所広島製作所(安芸区)に動員されたが、工場が電休日だった。

三女 道枝(15)=手前中
市立第一高女4年母や姉たちと叔母宅から戻り、爆死。日本製鋼所広島分工場(南区)へ昼夜四交代で動員されていた。4年生は59人が死去。
青木 ヨシ子 青木 ヨシ子(39)
爆死新川場町(中区小町)31番地の自宅が建物疎開となり6月ごろ、母と子どもの6人で転居し、5人が死去。届け出による死亡場所は、いずれも「中島本町25番地」。爆心2キロの比治山橋東詰めで被爆した市立第一工業学校(廃校)1年の二男は「頼る人とてなく翌年、現在住む大阪へ出ました。家族に恵まれた今でも、あのころのことを思い出すのは正直つらい」。

母 河井 カヨ 母 河井 カヨ(61)
爆死。

長男 河井 久幸 長男 河井 久幸(18)
広島鉄道局勤務夜勤明けで帰宅し、爆死したとみられる。

三男 忍夫 三男 忍夫(3)
爆死。

四男 耐志 四男 耐志(11カ月)
爆死。
田坂 保 田坂 保(54)
三菱重工業広島造船所徴用広島造船所が使っていた、中島本町22番地の藤井商事の倉庫内で爆死兵役中の長男が5日、西平塚町(中区)に帰宅した際、父は「職場はレンガ造りの頑丈な建物で空襲があっても大丈夫」と話していた。
前田 文子親子 前田 文子(37)(左)

長男 栄太郎(12)(右)
中島本町41番地の自宅で、娘2人との家族4人が全滅。(注・記録はいずれも7月13日付の「中島本町Ⅰ」編で掲載)


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