米国が被爆地広島に設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)は、発足翌年の一九四八年から六年間、大がかりな
新生児調査に取り組んだ。被爆者の子に遺伝的影響が生じるのかどうか―。今も未解明のテーマにいち早く取り組
んだこと自体が、原爆投下国の並々ならぬ関心の高さをうかがわせる。
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「出産異常を恐れる人は確かに多かった。徐々に『大丈夫そう』と分かり安心したものです」。広島市安佐南区
中須の大久保ハルコさん(88)が被爆直後の混乱期を思いおこす。今も現役の助産師。七十年近くの間に、八千
人を超える赤ちゃんを取り上げてきた。
「当時、出産や妊婦の異変はすぐ届けるように言われていた。ただ、私のところではABCCへの調査協力の話
は聞かなかったけど、広島市内の助産師は書類を出したりと大変そうでした」
大久保さんの暮らす中須は当時、安佐郡安村。助産師組織は旧広島市内とは別だった。「市内では、米国人が面
倒なほどに調べに来る、と助産師仲間が言っていた」
四五年八月六日早朝、大久保さんは、その旧市内へと勤労奉仕に出向く近所の人たちを見送った。自らは助産師
として地域を離れられなかったことが、その後の運命を分けた。顔の形も分からないほどに焼けただれ、逃げて来
た人たちの看護に追われた。
生き残った後ろめたさに胸を締め付けられながらも、戦後は助産院が満杯になるほどに、命の誕生に立ち会った。
赤ちゃんに囲まれるのが、幸せだった。
「書類や報告は米国人の勉強に役立てられたんでしょう。広島の助産師はそう信じて、職務に励んでいたと思い
ます」
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広島市西区の医師竹本孝さん(82)は一九五〇―五四年、ABCC遺伝部に在籍した。原爆投下の翌朝、下宿
先の岡山市から家族を捜して広島に入った被爆者である。米国の機関に職を求めた心境を「占領下の焼け野原で食
べていくのに必死だった」と振り返る。
最初の仕事が新生児調査だった。住所がタイプされたカードを頼りに、赤ちゃんのいる家を戸別訪問した。調査
に先入観が入らないよう、親が被爆者か否かは知らされていなかったという。先天異常の有無などを調べ、帰り際
には母親に、米国製せっけんを手渡した。
「新生児のほぼ100%が把握されていたようだ」と竹本さん。米国人に上手に使われている気がして、半ばう
んざりしてABCCを辞した。「指示に従って仕事をし、報告書を書いただけ」。ABCCの運営の詳細は知らさ
れず、報告書が米国でどう使われたかも、知る由はなかった。(森田裕美)
【写真説明】上=数々のお産に立ち会った経験を振り返る大久保さん 下=ABCC時代に携わった新生児調査の記憶をたどる竹本さん
    
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