一九四七年に広島市に設立された原爆傷害調査委員会(ABCC)は当初、研究方針に一貫性が乏しかったとの
指摘がある。個々の米国人研究者がそれぞれ調査計画を立てて取り組み、数年で帰国していたのが大きな理由とさ
れる。遺伝的影響を探る新生児調査が五四年に終了すると、米国では廃止論が強まっていった。
岐路に立ったABCCで、現在の放射線影響研究所(放影研、広島市南区)に引き継がれる研究体制の基盤をつ
くったのが五五年の「フランシス委員会」の報告だった。メンバーの一人、シーモア・ジャブロン博士(89)が
健在と聞き、ワシントン郊外のメリーランド州ベセスダにある自宅を訪ねた。
「当時はまだ原爆の後障害についてはほとんど知られておらず、研究もてんでばらばら。ひどい状態だった」。
妻テルマさん(87)と愛犬エンゼルの傍らで、博士の回想が始まる。
フランシス委員会はABCCのあり方を再検討するため、米学術会議が設置した。ミシガン大のトーマス・フラ
ンシス教授を委員長とし、当時は学術会議医学統計調査室にいたジャブロン博士も加わった。
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委員会は、メンバーが被爆地に降り立って十日間でABCCの研究体制などを調べ上げ、報告書にまとめた。被
爆者集団と比較対照するための固定した非被爆者集団を設け、長期的に追跡調査するとの手法を提案した。
これを受け入れ、ABCCは広島、長崎で大規模調査に着手した。国勢調査を基に性別や年齢に配慮しながら、
調査対象となる被爆者と非被爆者の集団を選定。計約十二万人の寿命調査に取りかかり、五八年からは約二万人を
対象に二年に一回の検査をして被爆者に多い疾患を調べる成人健康調査にも着手している。いずれも放影研が現在
に引き継ぐ。
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「被爆後十年たっていたが、その時点でできる最善の取り組みだった」とジャブロン博士は今も自負する。
その後の六〇―七一年、博士はABCC統計部長として家族で被爆地に赴任。研究が軌道に乗るのを見守った。
「広島はかなり再建されていたが、まだ傷跡は残っていたなあ」。かつて暮らした地名、日本人の友人の名がし
ばしば登場する回顧談は、広島を懐かしむ響きを帯びる。話が進むにつれ、原爆投下国が運営する組織と被爆者と
のはざまに苦しんだ過去ものぞいた。
「人間的な視点からは被爆者を治療すべきだと思ったし、そうしたかった」。それができなかったのは「空襲で
壊したからといって東京の家をすべて建て直すわけにはいかないように、どこまで責任が負えるか悩んだ。広島で
一部の人を助けることはできたかもしれない。が、むしろ生き残った人たちの将来のために、研究に専念すること
にしたんだ」。
フランシス報告から半世紀余りがたつ。試行錯誤の時代からABCCを見つめたジャブロン博士は、こうひとり
ごちた。「戦争も原爆も本当にひどい経験だった。それは覚えておかなくてはいけない」(森田裕美)
【写真説明】妻と愛犬のそばでABCCの創始期に思いをはせるジャブロンさん
    
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