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「神宿る みやじまの素顔」    13.杓子供養
島を潤した名産に感謝

「長い間ありがとう」。使い古したしゃもじをくべ、感謝を込めて手を合わせる杓子供養の参列者

 波打つ屋根瓦の奥に、千畳閣と五重塔を望む。その小高い丘の上に、江戸後期にしゃもじ製造を伝えたとされる僧・誓真をたたえる大徳頌徳(だいとくしょうとく)碑はあった。

 二十一日、碑前で営まれた「宮島杓子(しゃくし)供養」。かつて誓真が修行したとされる光明院の住職の読経に合わせ、使い古され、満願成就した八百本が火にくべられる。

 大野瀬戸から吹き上がる潮風にあおられ、一気に燃え上がる。「二十年、ご飯をよそわせてくれた。捨てるには忍びない」。上空にたなびく煙を見上げ、対岸から参列した女性は、そっと手を合わせた。

 農耕や機織り、殺生が禁じられた神の島。神社への参拝と遊郭、富くじ、市などに頼っていた島の暮らしは、豊かではなかった。人々の困窮した姿にみかねたのか。誓真は、神社の弁財天信仰にヒントを得て、琵琶の形をしたしゃもじを考案したという。自ら木を切り出し製法を広めた。

 江戸末期には、すでに産地としての体裁を整えていた。適当な形に割ったホオノキなどの原木を杓子問屋が職人に渡し、出来高制で工賃を払う。「宮島」と焼き印が押された偽物も出回った。細くて丸みを帯びた柄は、持ちやすい三味線のばちの形に変わった。

 「敵をめしとる」。明治に入ると武勲の願掛けが始まり、宇品港から戦地に赴く兵隊が千畳閣の柱にびっしりと打ち付けた。戦後は、高校球児を勝利に導く応援の音色として、甲子園で高らかに打ち鳴らされる。

 高度成長期、約二百五十年続いた老舗の問屋「宮忠」は、全国シェアの八割近くを占めた。しゃもじを「宮島」と呼ぶ問屋街もあった。だが、やがて中国産やプラスチック製に押されて店頭から姿を消す。二〇〇一年、宮忠はのれんを降ろした。島に五十人以上いた職人は、今では三人だ。

 にぎわう表参道商店街。長さ七メートルを超す大杓子が、でんと飾られる。神社の世界遺産登録を記念し、十年前から島のシンボルに加わった。物産店を営む小林武さん(54)は「宮島杓子は島の誇り。その魅力を全国に発信したい」。願いを込めて、地元商工会で昨年から杓子供養を始めた。

 誓真作と伝わる一本の杓子が、宮島歴史民俗資料館に残る。手削りならではの優しい曲線を描く。今、東京からUターンした三十歳の若手職人が、その復活に挑んでいる。逆境に知恵を働かせた誓真の精神は、脈々と島に息づく。

−2006.1.29

(文・梨本嘉也 写真・田中慎二)


宮島杓子 島のほとんどの物産店が長さ20センチ前後の飯杓子や、「商売繁盛」などの願掛け用、1.5メートルもある飾り用を販売する。宮島伝統産業会館は制作の過程や職人の作品を展示。「小田実木工所」は予約制で杓子を磨いたり、焼き印の押し方を教える(300円)。「宮島工芸」は「必勝」など文字の印刷や袋詰めを見学できる。専門店の「杓子の家」には昔から職人が使ってきた道具の展示コーナーがあり、手削りの作業風景を見学できる日もある。 地図


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