波静かな大野瀬戸を小舟で進む。午前六時。この島にだけ生息する「幻のトンボ」は姿を見せてくれるだろうか。思いをはせながら、島に上陸した。
海岸から分け入ると、白砂はやがて、所々に水のたまった湿地へと姿を変える。黒い泥土が目立つ。つい足を取られ、うつむき加減になってしまう。
その時だった。目の前を何かが横切った。青みがかった灰白色の尾。腹長は三・五センチ前後。ミヤジマトンボだ。その透き通った羽は朝日を受け、天女の衣のようにきらめいた。
ふわーり、ふわり。海からの風を受けて、舞っているかのように見える。「きゃしゃでしょう。腹で水面を打って産卵しているんですよ」。広島大宮島自然植物実験所技官の向井誠二さん(56)が目尻を下げる。県の委嘱を受け、五年前から保護に努めている。
生息場所は島の西側三カ所。原生林から流れ出す水でできた湿地には、満潮時だけ海水が入り込んでくる。水中の卵はやがてヤゴになり、ヒトモトススキやヨシによじ登っていく。信仰の対象として守られてきた島だからこそ、脈々と命をつなぐことができた。
一九三六年に初めて採集されて、ちょうど七十年になる。九〇年までは毎年百―二百匹が観察されていた。高度成長期の環境悪化や松枯れを防ぐ農薬散布、そして昆虫愛好家の捕獲により、その数を減らしてきた。相次ぐ台風で吹き寄せられた砂が生息地をさらに狭め、今年は二十匹前後しか確認できなかった。
「今の環境を守るだけでは心配。自然災害に左右されにくい代替地を探さないと」と危惧(きぐ)するのは広島市森林公園こんちゅう館の坂本充学芸員(45)。この三月、広島県と環境省、島内外のボランティアらと水路を掘ったり、草刈りをしたり、湿地の整備に取り組んだ。予想以上に荒廃していた生息地のことが気がかりだ。
日が高くなってきた。ススキで羽を休めては舞い降り、メスが腹でしきりに水面を打ち始める。「たくさん育ちますように」。願わずにいられなかった。 −2006.9.3
(文・梨本嘉也 写真・藤井康正)
ミヤジマトンボ シオカラトンボ属で成虫を見られる時期は5月下旬―9月中旬。水中に産み落とされた卵は粘性物質で沈んだ葉や石などにくっつくため、流されることはない。環境省と広島県のレッドデータブックで絶滅危惧種に選定。県は「特定野生生物種」に指定し、無資格で捕獲すると条例違反で摘発される。密猟を防ぐため、生息場所も公表されていない。
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 ミヤジマトンボのオス
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