中国新聞
2003.9.15

太古の姿
   環境の指標
 「里海 いま・みらい」  2.カブトガニ



神秘の魅力 産卵ルポ 行政 カブトガニの生活史

カブトガニは6〜8月にかけ、大潮の日を中心に産卵。砂浜の数カ所に、直径2、3ミリの卵を200〜500個ずつ産む。ふ化は約50日後。  成長の過程や生態は詳しくは分かっていないが、生活の場を干潟に移した幼生は、ゴカイや貝をエサに脱皮を繰り返しながら成長する。ふ化直後の幼生を1齢とし、脱皮ごとに2齢、3齢…と数えていく。雌雄ともに計13〜15回脱皮し、10年ほどで成体になる。寿命は約30年とみられる。  成長するにつれて、藻場などにも出て捕食する。沖合にも移動するとされるが、詳細は不明。大分県杵築市の守江湾で1994年に標識を着けた成体が1年1カ月後、約60キロ離れた山口県上関町沖で見つかった事例もある。

 



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観察会で見つけたカブトガニの幼生を手に喜ぶ子ども(8月10日、竹原市吉名町)

■神秘の魅力■
月に導かれ続く営み

 「月の光に照らされたカブトガニの産卵は何度見ても幻想的。仕事の疲れも吹き飛ぶ」。北九州市の曽根干潟で観測を続ける日本カブトガニを守る会福岡支部メンバーの病院職員林修さん(51)は、その魅力を語る。

 月の満ち欠けで生じる潮汐。大潮時の干満差は、瀬戸内海中央部では最大約4メートルにもなる。満ち潮の力を借り、カブトガニのつがいは砂浜の奥へ、奥へ…。やがて引き潮に乗り、沖に帰る。月に導かれるかのような太古からの営みが続く。

 なぜカブトガニは、大潮の満潮時に産卵に来て、できるだけ満潮線近くに産卵するのか。

 「通気性が悪くなると卵は腐るが、潮が引いた砂浜はほどよく乾燥し、温度もほぼ一定に保たれている。水中の外敵に食べられる心配も少ない。種の保存のための本能でもある」

 研究と保護活動を50年近く続ける筑波大の関口晃一名誉教授(83)=埼玉県=は著書「カブトガニの不思議」(1991年)でこう記す。

 「何カ所にも分けて産むので、長い海岸線が理想」と関口名誉教授。護岸工事や埋め立てで損なわれてきた産卵場所の環境整備が個体数回復のカギ、と指摘する。

 「干潟で幼生を踏むと痛いので避けて歩いていた」「食べていたこともあるらしい」…。そんな話を何度も耳にするくらい、30年ほど前は瀬戸内海でよく見かけられていたカブトガニ。漁網を破る厄介者でもあった。

 大分県杵築市の漁業者高木浩一さん(46)も手を焼いた一人。長さ約200メートルの刺し網に2、30匹掛かることもあったが、近年は激減。市から依頼を受け、網に掛かった成体に標識を着け、日誌に記録する。「思えば漁師にとってはいい海だった」。カブトガニとともに漁獲量も落ち込んだ。

 竹原市吉名町。干潮時に砂州でつながる竜島など昔ながらの景観が残り、カブトガニが繁殖する。「カブトガニがすむ環境は豊かな瀬戸内海の象徴」と清瀬祥三さん(45)。「カブトガニがすみやすい環境を守る会」の世話人で、生物に限らず、地域環境の総合的な保全活動に打ち込む。

 カブトガニが姿を見せなくなって久しいとされる備前市の片上湾。昨年8月、成体が発見された。脱皮に失敗した死がいだったが、海の生物調査などをしている住民グループのメンバーで会社員の小西良平さん(55)は「環境変化で激減した象徴的動物。戻ってくれば意義深い」と期待する。

 


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コンクリート岸壁のそばで、産卵泡を出しながら卵を産むカブトガニのつがい(7月15日、山口湾)

■産卵ルポ■
山口湾で一夜 「泡」に熱く

 「窮屈そうに」。そんな印象を受けた。山口市の山口湾で7月15日、カブトガニの産卵を見た。湾の大半はコンクリート岸壁。波打ち際にたまった、幅数メートルのわずかな砂場が、生を託した場所だった。

 「いたっ」。午前8時15分、目印となる産卵泡を見つけた。円を描くように美しい泡が何度も海面に広がる。満ち潮で、水深は約80センチ。2日前までの雨で、濁りはあるが、確かにつがいの影が水底に揺らぐ。約500メートル南でもう一カ所、産卵泡を確認した。

 甲の長さ約30センチの雌の後ろに、少し小柄な雄がしがみつく。産卵のため砂を掘る時、砂中の空気が水面に上がるのが産卵泡。水位が下がるとともに、つがいの動きがより鮮明に見えてくる。

 産卵は6〜8月、大潮の日を中心に見られる。満ち潮に乗り、雌雄一体で砂浜に近づき、引き潮の力を借り離れていく。

 前日の14日夜、山口カブトガニ研究懇話会代表の高校教諭原田直宏さん(51)=山口県山陽町=の定点観測に同行。下関市の王喜海岸で産卵泡を探し、観察方法の指南も受けた。

 暗闇の中、懐中電灯を海面に照らしながら海岸線数百メートルを何度も往復する。原田さんが指さした先にようやく産卵泡。泡は移動し、産卵場を変える様子が分かる。素人目には、打ちつける波の泡と区別がつきにくい。

 潮が引き始め、つがいの姿も見え始めた。撮影チャンスが近づく。が、産卵を終えたのか、雌雄一体のまま沖へ。逃げ足は想像以上に速かった。

 産卵は夜と思っていたが、「昼も大丈夫」と言う原田さんの激励に、海の濁りが少ないと予想した山口湾に移動。周防大橋下で夜を明かした。それだけに、山口湾で確認できた時、熱いものがこみ上げてきた。

 「最初に見た時、感動でしばらく身動きがとれなかった」。1992年夏の経験を語る原田さんの話が思い浮かんだ。

 気がいい「夫婦」なのか3時間余りの観察に付き合ってくれた。つがいは約50メートル移動し、数カ所に産卵した後、引き潮に乗り去っていった。

 瞬く間に時間が過ぎた。水中カメラを構え、写真に収めたカメラマンは海から上がった瞬間、一言漏らした。「すごい」。太古から続く神秘のベールに包まれた生の営み。何度見ても不思議な感覚に陥りそうだった。

 


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カブトガニをデザインした大分県杵築市のマンホール。海と川の環境を大切する意識啓発のために導入した

■行政■
海岸保全や啓発に力

 行政による保護活動も進む。繁殖地保全、再生のほか、住民への啓発、漁業者との連携に力を入れる自治体もある。

 繁殖地として唯一、国の天然記念物に指定されている岡山県西部の笠岡市・神島水道。市立カブトガニ博物館などが人工飼育した幼生を放流し、命脈を保ってきた。

 市は7月1日、全国初の保護条例を施行した。幼生を守り、自然繁殖につなげるのが目的で、繁殖地での潮干狩りなど生息環境を乱す行為の禁止や保護監視が柱。惣路紀通主任学芸員(47)は「無事に育つには、市民の協力が欠かせない」と条例の効果を期待する。

 山口県東部の平生湾では昨年、平生町と県がそれぞれ産卵用の人工海浜を整備。両方でこの夏、初の産卵が確認された。

 町は山口カブトガニ研究懇話会からの生息情報を受け、保護に乗り出した。県は、護岸工事で産卵に適した自然海岸が一部失われたため田布施町側に造成。同懇話会と砂質などを相談しながら事業を進め、官民一体の取り組みが実を結んだ。

 北九州市の曾根干潟は国内屈指の繁殖地。今シーズン、産卵が確認されたつがいは752(8月15日現在)に達した。市はこの夏初めて、観察会を開催。120人の応募があり、予想を大きく上回った。

 市環境管理課の岡俊明さん(34)は「環境や保護について考える場として今後も開きたい」と手ごたえを感じていた。

 大分県杵築市は九92年、市長をトップにした保護委員会を設置。産卵場に砂を入れたほか、残留塩素が海に出るのを防ぐため、下水道終末処理に塩素を使わない紫外線殺菌を導入した。

 保護グループと連携した観察会や産卵調査も続け、マンホールのふたを順次、カブトガニのデザインに変えている。

 さらに、漁業者にも協力を要請。網にかかった成体の個体数の把握や標識を着けて放流する事業を九四年に始めた。当初、「網を破る厄介物」との反発もあったが、年間1300万円の予算でクルマエビを放流するなどの見返りも用意した。

 同市の西原繁朝総務課長(58)は「カブトガニは環境のバロメーター。恵まれた海で繁殖し、生息できない海には糧となる魚もいなくなる。みんなの問題としてとらえてほしい」と訴える。