カープへの思いが詰まった2つのたるを前に、石本監督(手前右端)に、のし袋を贈る少年。鈴なりの観客が見つめる(1951年、広島総合球場)




 「元祖『たる募金』はいつ始まって、いくら集まったんですか」―。今回のたる募金計画を発表した会場で、記者からこんな質問が飛んだ。答えは「神のみぞ知る」である。
 中国新聞に繰り返し載る一枚の写真がある。広島総合球場(今の広島県営球場)で、すし詰めの観客が見守る中、初代監督、故石本秀一さんにのし袋を渡す少年。大きなたるが二つ。一九五一年の公式戦開始前とある。日付は定かでない。

選手へのユニホーム資金を募る後援会メンバー。「たる」ならぬ「ドラム缶」(1953年4月26日、広島総合球場入り口)

 たるは、中国新聞社野球部員の発案で置いた。当時の社屋(現・中区胡町)近くにあった尼子商店で調達したしょうゆだると思われる。尼子商店は、商売繁盛の祭り、えべっさんのさい銭だるを保管している老舗だ。開幕前の紅白戦でお目見えしたたるが、いつからいつまであったのか記録はない。

少年は誰なのか

 写真の少年は、当時一年分の小遣い二百円を寄付し、大ニュースとなった迫谷富三さん(63)とみられていた。だが、中区で建設会社を経営する迫谷さんは首を振る。「贈呈式には出たが、たるの記憶が全くないし、自分はもっとがんぼじゃった」。左隣の中国新聞社員も亡くなり、少年が誰かは分からない。
 カープは一年目の五〇年、すぐに資金繰りでつまずく。広島県と広島市など五市の出資が、予定の半分もなかったからだ。六月には早くも市民のカンパ六十万円が贈られたとの記録がある。映画代が百円を切る時代である。
 初年度の勝率は三割を切り、身売り、合併の危機に。翌年二月二十日、キャンプ中の総合球場にパトカーが横付けし、広島市警で集めた一万五千円余りを届けた。三月中旬には石本監督が広島県庁前で後援会づくりを訴え、支援の輪は職場、町内会と瞬く間に広がった。たるの登場もこのころである。

歳末商戦たけなわの本通り商店街で、サイン入り鉛筆を売る。左から長谷部さん、萩本保投手、石黒忠投手、後に広島市民球場のグラウンドキーパーとなる故土岐修三さん(1951年12月15日)


ドラム缶も活躍

 ドラム缶も活躍した。女性後援会が担当したユニホーム募金。五三年の写真には「年中たった貳枚しか持たない選手に贈ることは急務。全員一揃いで参拾万円」とある。
 球団発足と同時に捕手として入団した長谷部稔さん(73)=広島市安芸区=が、苦い記憶をたどる。シーズン途中で入った投手を登板させたいがユニホームがない。「ちょっと貸しちゃってくれーや」と石本監督。脱いだきり25番は取られ、27番に。幻の25番は、カープOB会のチームで付けている。
 選手も汗を流した。五一年のオフ、若い投手四人と長谷部さんだけが合宿所に残され、練習を命じられた。合間には、広島きっての商店街、本通りへ通った。年の瀬の買い物客にサイン入り鉛筆を売るのだ。一ダース六十円。子どもにはバラで分けた。「みんな随分、買うてくれました。給料も遅配で厳しいのがわかっとったから、恥ずかしいとも感じんかった」
 年会費二百円の後援会員は一万五千人を超え、四百万円以上が集まる。五二年オフには、金山次郎、小鶴誠ら大物選手獲得 こうしてカープの支援は、あちこちで、さまざまな目的で、いろいろなやり方で何度も繰り返された。被爆、のため、一千万円募金を達成して、全国を驚かせた。
敗戦からほどない時期、食うや食わずの人たちが夢を追いかけた歩みだった。姿もどことなく親しみやすい「たる」は、その歩みのシンボルなのである。



  


特集TOP たる募金TOP