開放 | 憩いや行事 活用を |
現状維持 | 慰霊の場 汚さずに |
原爆慰霊碑の前で、家族連れが寝転がったり、ソフトクリームをほおばったり…。中国新聞のカメラマンが広島市中区の平和記念公園で、一九八四年に撮影したひとこま。四月八日、花見日和の日曜日の光景である。
それから二十年。芝生広場に入れるのは、年に一度、平和記念式典を営む八月六日だけとなった。「私も小さい時は、遠足で芝に座って弁当を広げたものです。今ほど厳しくなったのは、つい最近ですよ」。市緑政担当課長の佐々木正裕さん(48)が記憶をたどる。
次第に厳しく
公園の規制は、六七年に就任した故山田節男市長が唱えた「聖域化構想」に始まる。露店やデモ、集会を禁じ、同様に市民の芝への立ち入りを禁じた。被爆者運動のシンボル的存在で、原水禁国民会議代表理事だった故森滝市郎さんは当時、「芝生で母子連れがハトと遊ぶ姿こそまさに平和で、霊も慰められるはず」と反発している。
山田市長の構想は受け継がれ、監視の目は徐々に強まる。写真の八四年は既に今のパイプさくだったが、陽気に恵まれるとなし崩し的に人が入り、市も黙認していた。「聖地にふさわしく」と芝を全面的に張り替えた九四、九五年以降は、さくを越えれば警備員が飛んでくる。そして、誰も入らなくなった。
FF初の打診
現在、市が「慣例的」に公園の利用を認めているのは、平和記念式典、ひろしま男子駅伝とひろしまフラワーフェスティバル(FF)。そのFFが、今年初めて芝生広場の使用を働きかけた。
「ダメでもともと。何とか崩そうと努力はしてみたんだけど…」。FFに二回目から二十七年携わる企画実施本部チーフディレクター石井将雄さん(54)は苦笑いする。平和の願いを込めたろうそく一万個を、公園内にともす企画。当初は芝に「FF」の文字を描く構想だったが、市は認めなかった。結局、芝を避ける形でろうそくを並べる。
市民7割望む
市は平和大通りリニューアルの参考にするため二年前、公園一帯の将来像を問う市民アンケートを実施した。芝生広場は、七割が行事など限定的な場合を含めて「開放」を望んだ。
一方で、慰霊碑に面した芝に特別な敬意を求める声も依然残る。公園を掃除する市シルバー人材センターの堀部カズエさん(79)は、被爆者ではない。それでも、「芝が踏み荒らされ、汚れていく姿は見たくない。原爆で消えた数え切れない魂が眠る地なんですよ」。
「慰霊にこだわる気持ちは分かる」。公園の歴史に詳しい広島女学院大教授の宇吹暁さん(57)は理解を示す。しかし、公園は慰霊のイメージだけが強くなり、観光や都市公園としての機能が隠されてしまった、と感じている。
「平和の形は本来さまざま。被爆者が亡くなっていく今の現実に目を向け、この地から何をどう発信するか、真剣に探っていくべきだ」。平和の発信の在り方を見つめ直す時期に来ている、との主張である。
タブー見直し身近に
「ヒロシマ」を象徴する場所を問うと、世界の多くの人が「原爆ドーム」「平和記念公園」(中区)と答えるだろう。修学旅行生が減っているとはいえ、原爆資料館を訪れる人だけでも年間百万人を下らない。
中国新聞社が都心で最も好きな場所を読者に聞いたアンケートで、平和記念公園は二位に入った。人類史上初めての原爆の被害を伝え、広島の人々のかなしみと、平和への思いが詰まったかけがえのない場である。
だが、何度も行きたい場だろうか。平和を体感できる場だろうか。被爆から間もなく六十年。時の流れにつれ、規制やタブーだらけの堅苦しい公園になってはいまいか。
パート4では、平和記念公園の新たな姿を探る。祈り、鎮魂といった「特別な意味」を尊重しながら、人の心にもっと近づく道筋を見つけたい。一年にたった一回しか開放しない芝生広場から始める。
2004.4.21
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