■緑地帯に 憩い・にぎわいを
広島市の都心を東西に貫く平和大通りは、平和記念公園と並ぶ街のシンボルである。原爆で廃虚と化した街の復興の柱として整備され、通りの名も公募で決まった。
幅はちょうど百メートル。幅百メートル以上の道路は札幌、名古屋と広島にしかない。緑地帯が道路中央の札幌、名古屋に対し、広島は両端にある。
その緑地帯の樹種の比類のない豊かさが、広島の誇りといえる。「七十年間草木も生えない」とされ緑に飢えていた市が、周辺の市町村に寄贈を呼び掛けた「供木運動」のたまもの。あちこちから持ち寄ったからこそ、約四キロの長さに百種類以上もの木が植わっている。
そんな平和大通りに憩いやにぎわいを求める市民は多い。市も何度も青写真を描いた。しかし現実には、道路交通法が立ちはだかり、苦しい財政事情が障害となって前に進まない。
■市民、感謝込め「戸籍簿」
「オリーブ、ユーカリ…。アルゼンチンの大統領夫人だったエバ・ペロンさんからもらったアメリカデイゴは確かあっちよ」「マメガキはかわいいんじゃけど、口に含むと渋いんよね」―。
新緑が陰をつくり、クスやトチの花が香る広島市中区の平和大通り。近くの竹屋公民館で活動する「平和大通樹(き)の会」の設立メンバーが集まった。「木の戸籍簿をつくろう」と一九八五年に組織し、これまでに冊子五冊にまとめた。取り組みは、市民の観察会や小学生の名札付けに受け継がれている。
並木111種以上
中国新聞社の読者アンケートで、平和大通りは「都心で最も好きな場所」の三位に入った。「並木が一様でないのは素晴らしい」と書いた人もいる。市によると三月末現在、三メートル以上の高木だけで百十一種、二千百七十八本。四季折々、花や新緑、紅葉や落葉、実も楽しめる。
平和大通りは四五年、軍都・広島を空襲による延焼から守るため、建物疎開を進め防火帯をつくったのが始まり。原爆で焦土となった後は、防災を主眼とした百メートル道路として復興計画に盛り込まれた。
住む家のない多くの市民は「こんなに広い道路は要らない」と批判。五五年の市長選では、幅を半分に削り市営住宅の建設を公約に掲げた渡辺忠雄氏が当選した。
緑化へと転換
その後、復興事業の関係者の説得で公約は白紙に。代わりに大通りの緑化政策が打ち出された。原爆投下の二カ月前に生まれ、平和大通りに近い天満町で育った広島市立大芸術学部長の大井健次さん(58)は、「やたらだだっ広くて、子供心にも木が欲しいと感じてた」と記憶をたどる。
五七年からの供木運動では、広島県内の市町村から約六千本が寄せられた。1面に移植の写真を掲載した筒賀村は、ツガやモミジなど百本余りを贈った。「『ええのを持って帰りんさい』言うてね。反対する者もなし、難しい手続きもなかった」。役場の林務係として広島市職員を村有林に案内した村議会議長、亀井定三さん(75)が振り返る。
「未来感じる」
東端の「被爆者の森」には、被爆者団体が集めた四十七都道府県の木がある。市民団体などの呼びかけもあり、外国からも種や苗が贈られた。
供木運動から半世紀近くたち、木々は大きく成長した。被爆者で、四年前に東広島市に移った今も「樹の会」に加わる蔵田百合子さん(78)が言う。「世界中のいろんな木が、助け合って成長している。ここにいると、未来を感じるんよね」
樹木を調べ、伝える活動には、ヒロシマに集まった「善意」を語り継ぎたいという願いがこもっている。
パート5は、歴史やこれまでの見直し案などをひもときながら、平和大通りの将来像を探っていく。
2004.5.19
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