■成功、FF誕生の契機
どよめく人波、揺れる小旗、拍手、紙吹雪…。一九七五年十月二十日午後零時半、平和大通りの西端に近い西観音町交差点(広島市西区)を広島東洋カープの優勝パレードが出発した。
沿道に30万人
悲願の初優勝から五日。秋晴れの平日の沿道には、三十万人が繰り出した。当時の市の人口は約八十四万人。「戦後最大のパレード」と中国新聞は伝えた。
「勝つとこんなに喜んでくれるんか、こんなに待っとってくれたんか。一人ひとりの顔をまじまじと見ながら、こんな機会は、人生何回もないと思うたもんです」
外野手兼コーチだった地元出身の山本一義さん(65)=中区=が思い起こす。就任したばかりのルーツ監督は開幕前、「君らの仕事は、勝って地域を元気づけ、人を喜ばすこと」と言った。自分の成績ばかり気にしていた野球人生で、初めて聞いた。パレードでみんなの喜ぶ顔を見て、ルーツ監督の言葉をかみしめた。「いい仕事についた」とつくづく感じたという。
八丁堀避ける
パレードはなぜ、平和大通りだったのか。広島県警交通部長だった中村盛人さん(79)=西区=が記憶をたどる。
巨人のV10を阻んで前年に優勝した中日に学ぼうと十月に入るころ、担当者を愛知県警に派遣した。名古屋市のパレードでの最大の問題点は、車が立ち往生し、選手が握手攻めに遭ったこと。主力選手の手がはれて、日本シリーズでバットが振れなかったというのだ。
カープからの正式な申し入れは優勝の一週間前。最もにぎやかな紙屋町―八丁堀間でやりたいとの意向が伝わってきた。人出は予測不能、路面電車と無数の路線バスが走り影響が大きすぎる。一本南の平和大通りなら対応できると考え、準備を進めた。バス会社も二つ返事で協力した。パレードへの異論は、街のどこにもなかった。
優勝の翌日だったか、旧知の故松田耕平オーナーから電話があった。「八丁堀に反対らしいのう」。「ファンも交通も予想つかん。絶対悪いようにはせんけえ」。中村さんはそう答えた。
当日は田中町(中区)までの二・七キロを警察官千二百人で警備した。機動隊や呉、三原署などにも応援を頼んだ。「去年の阪神みたいに、川に飛び込む不届き者なんか思いもせんかった。私も仕事半分、喜び半分よね」。中村さんも、球団のピンチにたる募金をした口だ。
トラブルは皆無だった。松田オーナーからは「言うことなし」と礼の電話があった。
特別な場所に
山本さんは五〇年に疎開先から南区に戻った。子ども時分の昔の平和大通りの記憶は「広くて暗い」。二十五年後、そこが晴れ舞台となった。広島が一つになった特別な場として、平和大通りは市民の心に刻まれた。
パレードの翌年、経済人が県警の中村さんを訪ねる。「平和大通りで祭りをやりたい。カープでやったんじゃけえ、できるじゃろう」。優勝パレードから、ひろしまフラワーフェスティバル(FF)へ。平和大通りは名実ともに広島のシンボルになっていく。
2004.5.20
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