中国新聞
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(02/07/31)
 一九四五年八月六日、広島デルタの上空約五百八十メートルでさ く裂した原爆に遭い、生き抜いてきた被爆者の平均年齢は七〇・八 歳になった。未曾有の被爆体験から何を学び、未来につなげていく か。ヒロシマの歴史を受け止め、刻んできた人の伝言を聞く。(西本雅実)
 
死没者悼む心 忘れるな  反核 被爆者が示そう

 被爆体験を風化させてはならないと声を大にして言いたい。原爆 死没者への哀悼の気持ちが薄らぎ、広島市の平和記念式典も形式的 になっている。風化は常に内部から始まり、広がる。死没者の気持 ちをくむ、生き残った被爆者や遺族の話を聞くことがますます大切 だと思いますよ。

 平和運動の先頭に立ってきた。今、がんと闘う。胃を全摘出した 後は五月に膵臓(すいぞう)への転移が見つかった。現在も住む爆 心二・三キロの南区皆実町の自宅で被爆。中学一年生だった。

 広島市役所近くでの建物疎開作業がたまたま休みとなり、助かっ た。三年生の兄貴は袋町にあった広島中央電話局に出て、どこで死 んだか分からない。両親は長男を失ってがっくりくる。僕と同世代 の息子や娘を失った隣近所の親たちからはねたましそうに見られ る。負い目が残ったね。

 大学を卒業して五五年、電電公社広島電話局(現・NTT西日 本)に入り、電通遺族会の結成に参加。十五歳で被爆死した兄の欣 次郎さんをはじめ、地方採用職員の遺族にはなかった弔慰金の支給 を求めていく。その年に原水爆禁止世界大会が始まり、被爆者運 動、原水禁運動に深くかかわっていく。

 藤居平一さん(日本被団協初代事務局長、九六年死去)の「国は 償(まど)え」との言葉を聞いて、ひざを打った。死没者への弔 意、遺族への補償がなかった怒りが、僕の運動の原点です。後に学 生や新左翼が、戦争の加害責任を掲げて参加してきたけど、死没者 や遺族に対する哀悼の念がなく短絡的で、去るのも早いこと、早い こと。

 原水禁運動の主導権をめぐる政党の対立に端を発し、広島の被爆 者団体も分裂。七四年に各地域・職域の十四団体をつなぐ被爆者団 体連絡会議が結成される。以来、事務局長を手弁当で務め、各団体 や行政との綱渡りの調整に心を砕いてきた。

 組織同士での話となると大げんか。それで森滝先生(森滝市郎・ 広島県被団協理事長、九四年死去)からクッションになってくれと 頼まれたんです。あの年、フランスの核実験に抗議して森滝先生と 初めてヨーロッパを回り、勉強になりました。魂の安売りをせず に、理念を言い続けようじゃないか。その考えに共鳴し、国家補償 に基づく被爆者援護法を訴えてきたわけです。

 被爆者援護法(九四年制定)に基づく、国の原爆死没者追悼平和 祈念館が一日、広島市中区の平和記念公園で開館する。被爆者の高 齢化は進み、運動の担い手が課題となっている。

 国の弔意とは何か。一人ひとりの死没者に、遺族の前で二度とあ のような戦争はしない、核兵器はなくすと誓うことだ。誤った戦争 で亡くなった死者を悼む人間的な感情を大事に、原爆許すまじ、つ まり非核三原則を貫く。放射線後障害という原爆の特殊性を訴え、 沖縄など他の戦争被害者との連帯も強める。被爆者が最期まで反核 ・反戦を生き方で示せば、後継者は出てくる。親の背中を見ている んだと思います。
広島被爆者団体連絡会議事務局長 近藤幸四郎さん(69)
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「被爆者が身を持って平和を訴えれば、意思を引き継ぐ者は必ず 現れる」。点滴を続ける自宅で近藤さん
 
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