中国新聞
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(02/08/01)
戦争の残酷さを知って  渡米して生きる力

 人が人を殺しあう、傷つけあう戦争は絶対にしてはいけない。昨 年九月十一日にニューヨークのツインタワービルがテロで崩壊し、 今度は報復戦争が始まった光景を見て、書かずにはいられなかった の。でも書き始めると、多くの被爆者がなぜ体験を話さないのかよ く分かった。思い出すことはとても苦しい。あの時のように皮膚が 破れ、ウミが出る痛みが体中によみがえったの。

 この夏、「記憶の断片」という本を渓水社(広島市中区)から出 版した。十六歳の夏の被爆体験を基に表した同名のノンフィクショ ンをはじめ、所属する同人誌「凾」などに発表した計五編、二百三 十ページからなる。一九五五年、ケロイド治療のため米国ニューヨーク に渡った二十五人の女性の一人。

 原爆に遭ったのは、広島市吉島本町の家を出て千田町の辺り。広 島商工会議所にあった県庁分室へ動員が続いていたの。大豆を炒 (い)って砂糖をかけた豆菓子を友達と食べるのが楽しみに歩いて いて、爆音がし、落ちてくる球体を見上げていたら気を失ってい た。中学一年の弟が死に、生後六カ月の妹は母が私の看病に疲れて お乳が出なくなって…。

 「記憶の断片」は、妹の死を知ったときをこう記す。「火傷(や けど)をしている私の方が死ねばよかったのにと思った」。被爆に ついて生々しい表現は避け、その時々の心の動きをたどり、細やか に描いていく。

 なぜ私だけが、こんなやけどをしたのかという思いが心の中にず っと続いた。じろじろ見られる。かわいそうと言われる。同情は嫌 だった。誘われて谷本牧師の教会に通うようになり、礼拝の後に集 まると、そこでは私よりもっとひどいやけどをした女性がいた。そ れでも輝くように元気なのね。言葉でなくいたわり合う。何か救わ れた。そうするうちに二十五人の一人に選ばれたの。

 渡米治療は、被爆者でもあった広島流川教会の谷本清牧師(八六 年死去)が呼び掛け、原爆で親を失った子どもたちに養育資金を送 る「精神養子」運動を提唱したノーマン・カズンズ(九〇年死去) が受け止め実現。武谷さん、旧姓柴田田鶴子さんら二十五人はホー ムステイをしながら、最長一年半にも及ぶ形成手術に耐えた。日米 の市民が協力した事業は、国内でも被爆者治療への取り組みを促 し、被爆者医療法が五七年にスタートする。

 私にとって治療よりもっと大きなことは、前向きに生きる気持ち になれたこと。数々のホストファミリーとの素晴らしい出会いが、 勇気と希望、夢をもたらしたの。愛をもらったこと、愛の力の大き さも伝えたかったの。でも私が書くことで治療を受けたほかの人に 痛みを与えてはいけないと思い、二十五人ではなく、私一人につい て紹介することにしたの。

 「記憶の断片」は、戦争への参加を拒んだクエーカー教徒をはじ め受け入れ家族との触れ合いを描いた「一九五五年のアメリカか ら」を収める。治療から帰国五年後に結婚した夫も交えた交友は半 世紀に及ぶ。

 姉とも言える二つ年上のジィーンがテロの後に電話で「田鶴子、 平和を訴えて」と言ったの。ジィーンのお父さんに抱きしめられた こと、生きるエネルギーを、今の幸せな人生をつかんだこと。それ でも戦争がなければ、あの残酷な思いを体験することはなかった。 若い人に知ってほしい。読んでほしいと思う。
被爆からの半生を著した
 武谷 田鶴子さん(73)
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「あの日のことを思い出すと胃がぎゅっとなる。でも書き残さないといけないと思いワープロに向かったの」と語る武谷さん(広島市東区牛田早稲田の自宅)
 
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