中国新聞
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(02/08/02)
逝った人は叫べない  長男「若者ぜひ読んで」

 あい

逝ったひとはかえってこれないから
逝ったひとは叫ぶことが出来ないから
逝ったひとはなげくすべがないから

生きのこったひとはどうすればいい
生きのこったひとはなにがわかればいい

生きのこったひとはかなしみをちぎってあるく
生きのこったひとは思い出を凍らせてあるく
生きのこったひとは固定した面(マスク)を抱いてあるく

    ◇

  ヒロシマの長編詩として知られる「慟哭(どうこく)」はこの詩から始まる。作者の未発表作を含む創作ノート十冊が七月末、広島市の原爆資料館に寄贈された。「慟哭」は最終章だけが、市民から募り、市中央公民館が被爆十周年の一九五五年八月に発行した「広島の詩」に載り、作家堀田善衛らが編んだ「日本原爆詩集」(七〇年)は二章(一部分を含む)を追加。作者による「少年のひろしま」(八一年)で十四章が収録された。「慟哭」の創作ノートが記されていたのは五五年三月から七月。十七章からなり一部の仮名遣いが違うほかは、現行版のオリジナルといえる。

 やかん

原爆より三日目に吾が家の焼けあとに呆然と立ちました

めぐりめぐってたずねあてたら まだ灰があつうて
やかんをひろうてもどりました
でこぼこのやかんになっておりました

やかんよ
きかしてくれ
親しい人の消息を

やかんがかわゆうて
むしように
むしようにさすっておりました

    ◇

 大平さんは、出産を控え長男を連れて帰っていた、爆心地から二・五キロの己斐町(西区)の実家で二十二歳のときに被爆した。榎町(中区)で雑貨商を営んでいた夫昇さん(30)を一カ月後に、胎内被爆の二男昇二さん(1つ)を翌年に失う。その年四歳だった長男とも別れることになった。

 「叔母さんは、実家に戻されて、小学校の先生をしていましたが、結核となり療養所に入ったんです」と、めいの高石玲子さん(63)は振り返る。入院は被爆四年後のこと。高石さんが見舞うと「夜が長い」と、集めた紙切れに詩を書いていたという。「慟哭」は、原爆で家族離散を強いられた病床の中から生まれた。

 失ったものに

母さんは
今宵かじるこのパンを
おまえにたべさしてやりたい
おまえにはら一ぱいたべさして やりたい(略)
    ◇

 残された一人息子とようやく一つ屋根の下で暮らせるようになったのは、長男が高校に入学した夏。被爆から十三年がたっていた。広島市の児童館に勤め、結婚した長男夫婦と同居。平穏な生活を手にする。やがて「慟哭」は歌曲となり、英語圏にも翻訳される。女優の吉永小百合さんが国際平和年の八六年、日本被団協などの集会で朗読し、広く知られるようになった。CDや教科書にも収録され、ヒロシマを代表する詩となった。

 母の十七回忌を機に、ノートを寄贈した長男の大平泰さん(59)は「若い人たちに読んでもらい、想像力を働かせてほしい」と願う。最終章は創作時のノートから一貫して変わっていない。  

 慟哭

しょうじ よう
やすし よう

しょうじ よう
やすし よう

しょうじ よおう
やすしい よおう

しょうじい よおう
やすしい よおう

しょうじい
しょうじい
しょうじいい
「慟哭」の作者(1986年、63歳で死去) 大平数子さん
大平さんが長男に語った最期の言葉は「一生懸命に生きてきたよね。ありがとう」だったという(1985年撮影、大平泰さん提供)
 
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