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第一報 |
女学生が発した「全滅です」
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原爆が投下された午前八時十五分の直前、軍人から女学生へと一枚のメモ書きが回った。「八・一三 広島、山口、ケ・ハ」。八時十三分に警戒警報発令―との意味だ。 比治山高等女学校(広島市南区)三年生だった岡ヨシエさん(74)=中区=はメモを握り、広島城本丸(中区)の一角、半地下式の中国軍管区司令部作戦室で交換機に向かった。警報を役所や放送局などに伝えるためだった。読み終えないうちに、窓から爆風が舞い込んだ。体は持って行かれ、意識を失った。 半地下室には、さまざまな運命が絡み合う。警戒警報や空襲警報の通信伝達業務に動員されていた岡さんたち約三十人の同級生は、前夜からの夜勤組。午前八時に交代するはずが、なぜかその日は遅れた。爆心地から約五百メートルと近い。もし地上にいたら、恐らく命はなかっただろう。 しかも岡さんの記憶では「B29一機が接近」との情報が司令部に入ったのは八時十分ごろ。警報が間髪入れず発令されていれば、多くの市民の運命も一変しただろうか。 意識が戻った岡さんが城の堀土手から望むと、見慣れた景色は消え、約三キロ先の広島湾まで開けて見えた。負傷した軍人から「新型爆弾」との言葉を聞き、足がすくんだという。作戦室に戻ると級友の一人が電話に応対していた。自分も受話器を取り、つながった福山の部隊に見たままを伝えた。「広島が全滅に近い状態です」 それから六十年。岡さんは、孫の年ほどの後輩からインタビューの申し込みを受けた。戦後、比治山女子高と名を変えた母校の一年で放送部員、佐々木祥子さん(16)と田所珠梨さん(16)。 放送部はこれまでも、岡さんの体験を聞き取っている。二人は部室に残る取材ビデオを繰り返し再生し、モニター越しに岡さんと向き合った。自分たちと同じ年ごろに、先輩は何を感じたのだろう。直接聞いてみたいと思い始めた。戦中の少女の心境、被爆後の人生も。 旧作戦室は今も残る。二重に掛かる錠前を外し、二人は岡さんの記憶が詰まる扉の中に飛び込んだ。 |
【写真説明】広島城の堀土手で、「あの日」の惨状を佐々木さん(左)と田所さん(中)に聞かせる岡さん。足元に旧作戦室がある(撮影・荒木肇) |