担当記者3人が振り返る

伝える 若者へ 世界へ

出会い語らい 平和の礎
 


 昨年十一月から毎週日曜日付朝刊で計三十回連載した「ヒロシマを聞く 未来への伝言」は、
総勢百一人の被爆者や若者たちに登場願い、「あの日」をテーマに対談してもらった。
年齢差を超えた語らいから、記憶継承のかたちや行方は見えてきたのだろうか。
担当した桜井邦彦(30)、門脇正樹(30)、加納亜弥(25)の三記者が振り返った。


「このときは私たちも、言葉に詰まった」。
連載を振り返る左から門脇、桜井、加納の3記者

 桜井 被爆者と、孫の世代に当たる若者との対談。お互いに生きてきた時代は違うし、初対面ばかり。話がかみ合うかどうか、ドキドキの連続だったね。

 門脇 実は僕も、じっくり証言を聞いたのは初めて。若者と同じ目線で勉強したようで、新鮮な思いだった。

 桜井記者は倉敷市、門脇記者は島根県島根町(現松江市)の出身。連載開始時に二十代だったこともあり、彼ら自身にとっても被爆体験は、未知の世界だった。

 加納 私は逆に入社するまで、原爆の問題や平和運動にはあまりかかわりたくないと思ってました。話がややこしくて面倒で、誰かに任せておけばいいやって。でもこの連載では、若者と一緒に被爆体験を聞いた。随分と感情移入もしちゃいましたね。

一つ一つの言葉重く/涙も沈黙も受け入れ/遺髪の手触りが訴え

 入社二年目の加納記者は東広島市出身。学校で受けてきた平和教育に、若干の拒絶反応もある。祖母(78)は被爆者。

 桜井 「被爆者の数だけ被爆体験はある」と聞くけど、その通りだと思った。初めて体験を語る被爆者は、確かにぎごちない。それでも言葉の一つ一つから思いがひしひしと伝わってきた。「懐が広い」という感じで、時にはつたない若者たちの質問を、しっかり受け止めてもらった。

 加納 いつもの口癖が出たり、沈黙があったり。紙面では、できるだけそのままに再現しようとしました。

 門脇 ぎくしゃくした場面は、そのぎごちなさが伝わるようにね。

 登場してもらった被爆者は三十五人。うち三人に一人は、人前で詳しく体験を語るのは初めてだった。「ほとんどない」を合わせると三分の二に。若者と向き合い、沈黙する場面はしばしばあった。しかし、ほとんどの被爆者は「語りたい、伝えたい」との熱意を持っていた。

 桜井 そういやあ、若者も感情むき出しになったりしたよね。

 門脇 泣き崩れたり、「もう聞けない」と黙り込んじゃったり。会話の流れを壊したくないから、なるべく口を挟まんようにしたけど…。

 被爆者と若者のセッティングは、もっぱら門脇記者が担当した。

 桜井 どうやって見つけたん。

 門脇 被爆者の手記を読んだり、知人の知人を頼ったり。例えば、登場してもらう被爆者を想定し、学校とか職場の後輩に当たる若者に声を掛けたりした。ちょっとかかわりがあるだけで、被爆体験を等身大でかみしめてもらえるだろうし。でも、かなりの数の被爆者に断られた。

 加納 私がセッティングを任されたときも大変でした。被爆者から「今さら引っかき回さないで」と。

 門脇 「あなたらにとっちゃあ書き捨ての記事。こっちにはこの先も人生がある」とね。被爆者の歩んだ苦労でもあるんだろう。手紙を書いたり、連載の紙面を届けたりしてOKをもらったこともあるけど…。

 対談は最長で一組八時間がかりだった。被爆者の体調に配慮し、数回に分けたこともあった。

 桜井 そんな被爆者の思いは、若者にきっちり伝わったんだろうか。平和学習が好きじゃなかったという加納君は、どう思う。

 加納 私も記者になるまで、祖母の被爆体験は細切れにしか聞いてなかった。平和学習の課題が出るたびに、祖母がしゃべってくれたことをまとめ、最後に「伝えなくちゃいけない」と添えた。それが模範解答だと思っていました。

 門脇 ある大学教授から聞いた話だけど、原爆被害をテーマにリポートを課したら、他県出身の学生は原爆資料館とかできちんと調べて提出してくる。広島の学生の多くは、小中学時代の記憶を頼りに作文を書き、「戦争はいけない」の決まり文句でまとめるらしい。連載に登場してもらった広島の若者たちも、平和学習を「やらされた」と言っていた。

 加納 その気持ち、分かる。

 門脇 でも、広島の若者たちは関心がないわけじゃないと思う。使命感は持ってる。「被爆地に生まれた者として、何か伝えなくちゃいけない」って、みんな言うもんね。

 加納 それはそう。平和学習は決してマイナスではないし、私も子どもができたらまず、祖母から聞いた話を伝えたい。一番リアルだから。

 ひと呼吸して、加納記者が続ける。

 加納 でもですね、世界の核情勢を前にすると、対話をいくら積み重ねても、すごく小さなことなのかなと思ったりもするんです。

 連載期間中も、北朝鮮の核兵器保有宣言、核拡散防止条約(NPT)再検討会議の決裂など、核軍縮をめぐる世界情勢は大きく後退した。

 桜井 核兵器廃絶に直接つながるわけではない。けど、対話はそのきっかけじゃないかな。

 加納 被爆者と若者の対話に触れ、伝えていく必要性は感じた。それは分かるんです。でも私たちの新聞報道にしても、どれだけ原爆が悲惨で、被爆者を今も苦しめているかを伝えるために、例えば「語るとつらい」と話すような定型の被爆者像ばかり書いてきませんでした? それって、自分が「繰り返してはならない」と感想を書いてきたことと、何が違うんだろう。

 先輩二人が少し考え込む。

 桜井 例えば連載四回目の「遺髪と腕時計」。加納君はあの取材で、遺髪を持たせてもろうたじゃろう。

 加納 つやが残って、柔らかな手触りだった。それに焼け焦げた時計のベルト。身に着けていた人の最期を思った。テキストの字面を追うだけだった原爆に対する思いに、少しずつ色が付いていく気がした。

 門脇 遺影も同じだったね。色あせた写真を懐から取り出し、「これが娘です」。そう言われると、次の言葉が出ん。どこまで被爆者の心に踏み込んでいいものか考えさせられた。ぶしつけに聞かせてもらって、悲しい思いをさせたのかもしれないなあ。

 加納 うちの祖母も、あの日から行方不明になったままの弟の遺品をこの春、原爆資料館に寄贈したんです。手放すとき、ぽろぽろ泣いていたと後で聞きました。

 血痕らしい染みが残る布製の学生かばんだった。

みんな「何か」感じた/活動の芽 広がる喜び/参加者 追い続けたい

 門脇 おばあちゃんの体験は、そっからまた詳しく聞いてみたん。

 加納 はい。スッと入ってきた。

 門脇 それでいいんじゃない。僕たちだって、この連載を機にヒロシマに触れた。若者も、被爆者も、何かを感じてくれたに違いない。

 加納 そう、芽生えた気持ちを大切にすることなんでしょうね。

 門脇 聞き取った証言を基に曲を作ったり、ラジオ番組にまとめたり、被爆資料の整理を手伝ったり。卒論のテーマに決めたとの報告も。そんな若者たちは、家族や友人と語らう場も増えたみたいですよ。

 桜井 ほじゃね。平和記念公園で外国人向けの通訳に名乗り出た子もおる。「平和ミッション」との合同討論会でも、若者から平和活動の実践報告や決意表明が相次いだ。ちょっとずつだけど気持ちの中で変化が出て、一歩を踏み出してくれたんがうれしいね。

 合同討論会に参加した若者から担当記者のもとに「今後もみんなと話し合いたい」との電子メールが相次ぎ届いている。

 加納 でも、しつこいかもしれませんが、これからの原爆報道はどうするんです。私たちがするんですよね。

 桜井 うーん、書き捨てになっちゃいかんし、若者たちの姿はこれからも追いかけたい。

 門脇 逃げられませんよ。じっくり腰を据えてね。





被爆者から
少しでも心に残れば…
竹村伸生さん(72)

 高校生や大学生、それに記者の思いの変化に注目しながら、連載を読んだ。今の広島が透けて見える思いがしたよ。
 学校に呼ばれたら体験証言に行く。ほいでも、語り尽くせん。じっくり、相手と気持ちを交換せんとね。話すんは原爆のことばっかりじゃないんじゃけえ。建物疎開や学童疎開、子を思う親、親を思う子…。みんな悲しみをひこずっとる。
 被爆者の中には「話しても分かってもらえん」と嘆く人もおる。じゃが、多くを期待しちゃいけん。心の片隅に残ってくれりゃあええんよ。われわれの話を聞いて、ちょっとでも気持ちが変われば、それでええ。それが伝言じゃけえ。



若者から
多様な「痛み」 胸に刻む
広島修道大4年 井上裕可里さん(22)

 誰の被爆体験を聞いても同じと思っていた。でも連載を通じ、原爆で受けた痛みは決して同じでないと気付いた。
 対話は継承の一つのきっかけだと思う。まずは被爆者から人生や思い出を聞き、その成り行きで被爆体験を聞くことができたなら、もっとスッと胸に入ってきたかもしれない。継承を目指す互いの力みが、逆に対話をぎくしゃくさせることもあると思う。
 「未来への伝言」をきっかけに、私の心の隅にもあったヒロシマ継承の使命感が刺激された。一時的な気持ちで終わらせないよう、ときどきは考えたい。そうすれば、心にだんだんと根を張っていく。そう思う。




■広島平和ミッション〜特集 被爆60周年 伝える 若者へ 世界へ
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