第1部 似島 眠りから覚めて 3

陶器ボタン
ひとり生存…募る無念


丸刈りのあどけない少年六十四人が口元を引き締めて写っている。一九四五年春、山陽工業学校(現山陽高)に入学した一年生たちだ。「これが私です」と、広島市佐伯区八幡東の三浦幹雄さん(71)は、五十九年前の自分を指した。「級友はみな、もういません」
動員学徒の原爆犠牲を追悼する山陽高の慰霊碑で碑文を読む
三浦さん(左)と正木教頭(撮影・山本誉)
 運命を変える

 少年たちの制服は、えりの形もポケットの有無もさまざま。ただ、ボタンだけは全員同じだったという。それも陶器製。戦時中の金属没収のためだ。そのボタンが、三浦さんの運命を変えた。
 八月六日午前八時すぎ、雑魚場町(現中区)の建物疎開作業現場。朝礼に集まろうと走りだした級友たちの中で、三浦さんは上着のボタンが取れかかっていることに気づいた。いつも「ボタン一つも天皇陛下からの贈り物」といわれている。なくすわけにはいかないと三浦さんは、友人に代返を頼み一人で防空壕(ごう)へとって返した。戸口近くにしゃがみ、親に持たされていた針と糸を取り出した。

 閃光(せんこう)はその瞬間だった。気がつくと壕の奥に倒れていた。外に出ると、街は燃えている。級友たちも教師も、誰一人いない。
 負傷者にもまれ、比治山のふもとで夜を明かし、広島県北の親類宅へ向かった。後に両親と再会できたが、母はその年のうちに亡くなった。会社に勤め、被爆体験の証言活動もしてきた。
 この夏、新聞紙面であの陶器ボタンに出合った。似島(南区)の原爆死没者の遺骨発掘で見つかっていた。今はもう写真でしか会えない級友のものかもしれない―。山陽高に連絡を取った。西区の学校を訪ね、校庭の慰霊碑に手を合わせた。
 「広島原爆戦災誌」や「石田学園五十周年記念誌」によると、爆心地から一キロ余りの雑魚場町で建物疎開作業をしていたのは、山陽中(普通科)の約二百六十人と三浦さんたち工業学校の約百五十人。いずれも一年生だった。一部は似島に運ばれたりしたらしいが、ほぼ全滅とされる。

 卒業生たちはボタンについて、山陽中も工業学校も同じデザイン▽四三年入学はまだ金属製▽四五年はもう陶器製▽学校の購買で陶器製を売っていた―などと証言する。断定できないものの、似島で見つかったのは、犠牲者の最も多かった一年生のボタンである可能性が高い。その裏にある「263」の数字は、皇紀二六〇三年(西暦一九四三年)の意味だろう―などの見方もある。
 中区で戦前から営む徽章(きしょう)店によると、山陽中のボタンを当時取り扱っていたが記録は焼失し、製造外注先や数字の意味は分からないという。


似島で見つかったボタン。
山陽中・工業学校の「山」と「中」の字を組み合わせたデザイン
 複雑な思いに

 そんなボタン発見の知らせに、三浦さんは言葉少ない。ひとり生き残った寂しさと、だれも助けられなかった無念さ。会いに行きたい級友はおらず、遺族には顔を合わせにくい。思いは複雑だ。
 校庭の慰霊碑の前で、山陽高の正木静夫教頭(56)が生徒への体験証言を依頼すると三浦さんはうなずいた。「おわびです。生きたことへの償いかな」。八月六日の校内の慰霊式にも、久しぶりに参加しようと決めた。




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写真特集
2004/7/18