第1部 似島 眠りから覚めて 4

戦争の島
「骨を遺族に」住民動く



 戦後、ヒノキの墓標柱が何本か立っていた。広島市南区の似島で市が進めている原爆死没者の遺骨発掘現場。誰が建てたのか、墓標はまさにその場所にあったと島民の宮崎多助さん(86)たちは覚えている。記憶の中で、墨の字は薄くにじみ、もう分からない。
 原爆投下直後から、およそ一万人の負傷者が運ばれたとされる似島。火葬・埋葬された犠牲者のうち、市は一九四七年、島内に残る遺骨を集めて通称「千人塚」を建てた。五五年には、そこにあった約二千人分の遺骨を中区の平和記念公園にある原爆供養塔に移した。
 七一年、馬匹検疫所跡地で遺骨が見つかったのを機に市が発掘調査し、推定六百十七体分を掘り出した。島民たちは作業を手伝い、宮崎さんも自分の船「宮多丸」で対岸の宇品(南区の広島港)まで遺骨を送り届けた。
 九〇年、今度は、犠牲者を火葬にした馬体焼却炉の遺構を市が調査した。人とも馬とも分からぬ骨灰や骨片が出た。

 これでもう遺骨はないだろう。そんな世間の声をよそに、島民たちは「まだ残っている」と確信していた。被爆した肉親の行方捜しがかなわず、残念そうに島を去る遺族たちの表情を多く見てきた。そして何より、墓標のあった場所を覚えていた。そこは民間のミカン畑だったため、七一年の調査対象から外れていた。






発掘調査の作業員は島民たち。
はけで土を払い、慎重に骨を掘り出す
(撮影・加納亜弥)
 記憶が決め手
 「わしらが生きているうちに、骨を遺族に返してあげたい。このまま残しておくわけにはいかん」。島の長老たちや似島連合町内会の平田襄会長(57)の働き掛けが市を動かす。今年五月から調査が始まると、近くに住む新宮綱一さん(78)たちが何度も現場に足を運び、記憶を手繰り寄せては市の職員と話し込んだ。そんな島民の証言通りに遺骨は出た。市が途中で調査区域を追加拡大したのも、島民の記憶が決め手だった。

 日清戦争が始まった一八九四年、大本営が広島に置かれた。以来、広島は軍都の道を歩み、宇品は全国の兵士を海外へ送り出す拠点となった。宮崎さんも一九三九年、陸軍兵として宇品から中国へと向かっている。帰国して山口県の部隊にいた時、広島の視察を命じられて入市被爆した。原爆は妹と弟を奪っていたことを、後に知った。

 軍施設が集中

 そして似島も、一世紀以上にわたり「戦争の島」としての歴史を刻む。一八九五年、外国から帰った兵士たちの検疫所ができた。それ以来、島の土地は軍に買収・借り上げされ、捕虜収容所、高射砲陣地、特攻隊訓練基地、船舶燃料貯蔵基地などが相次ぎ誕生した。そうした軍の施設があったからこそ、島は被爆者の収容先になった。
 「因果な島じゃ」。宮崎さんは振り返る。「この時代まで遺骨を残してしもうたのは、島民として慙愧(ざんき)に堪えん」と肩を落とす。

 「戦後」はこれで終わるのだろうか。




INDEX

第1部 1
第1部 2
第1部 3
第1部 4
第1部 5

写真特集
2004/7/19