四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面を追った。

                (2005年7月26日から7月30日に連載されたものです)

「縮景園の8・6」
1:秘密部隊 | 2:被爆イチョウ | 3:遺族の思い | 4:石柱漂流 | 5:家元の祈り

 秘密部隊


  かん口令敷かれた戦場

 
 ガラス張りの外観が特徴的な広島県立美術館が立つ場所には戦争末期、陸軍の秘密部隊が置かれた。浅野家の宝物が収められた観古館を利用した部隊の実像を知る人はほとんどいない。米国帰りの女子学生を集めた通信傍受班、とだけ伝わる。

 秦アヤコさん(85)=広島市安芸区=は、ここで夫の妹、芳子さん=当時(20)=を失った。幼いころ、米国で暮らし、英語が堪能だったため動員され、あの日は二十四時間勤務中だった。

 「お姉さん、お姉さんと慕ってくれました」とアヤコさん。別の場所に建物疎開に出ていた芳子さんの妹、清子さん=同(15)=も犠牲になった。

 かん口令が敷かれ、芳子さんから仕事の内容を聞くことはなかった。勤務中の女子学生八人全員が亡くなったという。縮景園もまた戦場だった。


地図

  

縮景園 広島藩藩主の浅野長晟が、元和6(1620)年から別邸の庭園として築いた。名称は、中国杭州の西湖を模して縮景したことに由来する、といわれる。昭和15年、浅野家から広島県に寄贈された。現在、年間20万人の来園者でにぎわう。

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