四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面を追った。

「縮景園の8・6」
1:秘密部隊 |  2:被爆イチョウ |  3:遺族の思い |  4:石柱漂流 |  5:家元の祈り

 遺族の思い


   3歳の弟火葬
   遺骨分からず

 
 多坂基弘さん(74)=中区上幟町=は六十年たった今も、鮮明に覚えている。  瀕死(ひんし)の人々が逃げ込んだ縮景園の一角で、亡くなった人が次々に焼かれていた。多坂さんの番になった。八月七日、息を引き取ったばかりの三歳の弟を炎の中に投げ込んだ。「感情がまひして悲しくさえなかった」。十一日、両親と湯来の親せき宅に向かう途中、大けがをしていた父親の延一さん=当時(47)=を失った。

 園に隣接する家で生まれ育った多坂さんにとって、園は庭のような存在だった。動員先の広島駅で被爆。やっとたどり着いた園内は、横たわる死体や重傷者であふれていた。

 一九八七年、園内から六十四体の遺骨が発掘された。被爆直後、撮影された写真に、埋葬されたことを示す看板が写っていたのが手掛かりだった。その場所に翌年、慰霊碑が建った。

 弟は骨さえ分からないままだ。今も、すぐそばで暮らしているけれど、園を訪ねることはめったにない。

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