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菊池俊吉が撮った原爆写真U
2007/02/28
原爆資料館「頭髪の抜けた姉弟」 被爆状況が判明
弟7歳、享年11歳 姉9歳、享年29歳

 写真は、被爆による急性放射線障害の実態を今に伝える貴重なカットである。旧文部省の原爆災害調査団の記録映画班に同行した写真家の菊池俊吉さん(一九一六―九〇年)が一九四五年十月六日に広島赤十字病院で撮影したネガフィルムから焼いた。広島市の原爆資料館は「頭髪の抜けた姉弟」との説明で展示している。

 菊池さんの撮影記録などを手掛かりに調べると、姉は池本アイ子さん、弟は徹さん、と分かった。広島市舟入町(中区)の住まい近くの銭湯に設けられた神崎国民学校分散授業所で被爆した。当時、姉は九歳、弟は七歳。放射線障害は回復したかに見えたが、徹さんは撮影から四年後の四九年六月十七日に十一歳で、アイ子さんは六五年一月二十一日に二十九歳で亡くなっていた。

 本日付の「ヒロシマの記録 菊池俊吉が撮った原爆写真U」は、広島赤十字病院での写真を中心に被爆の実態をみる。(編集委員・西本雅実)

菊池さんが45年10月6日に広島赤十字病院で撮影した池本アイ子さん(右)と弟の徹さん。放射線障害による脱毛は一般に被爆後約2週間から始まった
「母」の看護に支えられ

 被爆直後の広島を克明に撮った写真家、菊池俊吉さん(一九一六―九〇年)のネガフィルムから今回は、市民らの治療に当たった広島赤十字病院をめぐる写真を中心に紹介する。撮影記録によると、いずれも一九四五年十月四日から六日にかけて。当時のメモや資料などを手掛かりに写っていた人たちを追い、被爆の実態に迫る。(編集委員・西本雅実)

 「娘盛りなのに顔がこんなになり死んだ方がいい…腕もなかなか治らず『切ってちょうだい』と口走り、母を困らせたことがあります」。栃木県小山市で健在だった陸田(くがた)豊子さん(84)は、ネガに焼き付けられた自身の姿をじっと見つめた。口ぶりはどこまでも穏やかだった。

 広島市中区本通にあった安田生命広島支店に勤めていた。田畑が広がっていた吉島本町三丁目(中区)の住まいから歩いて南大橋を抜け、日赤そばの電停から路面電車に乗るのが通勤コース。四五年八月六日は、その南大橋で閃光(せんこう)にさらされ元安川へ吹き飛ばされた。爆心地の南一・七キロ。助かったのが奇跡といえる。

 「向こう岸(大手町方面)に渡ろうと思ったけれど、気力もなくて橋の柱につかまっっていました」。岸にも川にも数え切れないほどの無残な姿が広がるうち「軍の船で宇品(南区)に運ばれた」。宇品凱旋(がいせん)館に構えていた陸軍船舶司令部の部隊に救助されたとみられる。

 とりあえず油を塗ってもらいムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、さらに海路で玖波国民学校(大竹市)へ。八〇年に見つかった旧玖波町の「収容患者名簿」に陸田さんの名前が残っていた。重傷者を示す○印が付けられていた。八十人が収容され、終戦前日の八月十四日までに十一人が死亡している。

 「私の名前が広島で張り出され、母が親類の兄と荷車で迎えにきてくれたんです」。吉島本町に戻ったのは八月二十四日。住まい隣の農家から借りた、その荷車で日赤に通い、治療を受ける姿が、旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池さんによってくしくも収められた。

「写真に撮られるのは今も好きじゃないの」。求めに応じて自宅庭に立った陸田さん。2年前に倒れるまでは家庭菜園の世話を日課にしていたという(撮影・室井靖司)
 米軍の写真接収を経て、七三年の「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開され、「荷車の親子」と称された。原爆の悲惨さを伝える写真として注目を集めた。荷車を引いていたのは父の妹だったコヒデさん(七七年、八十一歳で死去)。陸田さんは幼いころ父と死別し、叔母とその息子と暮らしていた。

 あらためてこう振り返った。「母も同然でした。吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取ってくれ、どうやって治療費を工面したのか、足も焼かれて歩けない私を毎日のように日赤へ運んでくれたんです」

 コヒデさんの懸命の看護もあり翌年に職場へ復帰。自ら求めて東京に転勤した。いいなずけが復員していた。「原爆のせいで反対にも遭いましたが…」。縁戚でもあった陸田肇さんと結婚し、電機メーカー社員の夫の勤務地である小山市に落ち着いた。

 一男二女を育て、十年前に七十六歳だった夫を見送った。二年前には脳梗塞(こうそく)に襲われた。「原爆の影響とは思いません」と退けながら、熱線の傷あとが残る左手は「年を取るにつれて硬直し、お茶わんを持てなくなった」という。

 「あの日」から続く暮らしの一端を、「広島を離れていても被爆者だと意識させられています」と表した。

 原爆の記録写真にも残る自身の体験については、孫五人にもあまり話していない。それでも取材に応じたのはこんな思いからだった。

 「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増え、こういう形でしか分からないんでしょう…。原爆でどういうふうになるのかを見て分かってほしい」。問いかけるように、願うように言葉を紡いだ。

広島赤十字病院で治療を受ける22歳の陸田さん(45年10月6日) 「やけどは顔もですからよけいに…」。押し黙って述懐した後、「こうした写真がないようになってほしいですね」と続けた。写真と日本映画社の原爆記録映画班のカメラ(山中真男撮影)に撮られたのは覚えているという
荷車で通院する陸田さん(45年10月4日) 米軍病理学研究所から1973年に返還された複写プリントが公開された当時、「荷車の親子」と紹介された。叔母のコヒデさんは撮影当時50歳。右端のバラック後ろに広島高等師範の建物が見えることから広島赤十字病院に着く直前とみられる
広島デルタの南側から見る廃虚(45年10月4日) 広島赤十字病院(中区千田町1丁目)の屋上が見えることなどから、病院の南約100メートルに位置した広島貯金支局(同)の最上階の4階か屋上で撮った5枚の写真をつなぎ合わせた。塔が見える本館は93年に取り壊され、爆風でゆがんだ鉄製の窓枠が正門横の敷地に保存されている
菊池さん撮影跡から見る現在の中心街 広島赤十字病院は、1956年構内に開設された原爆病院と88年に共同の8階建て新病棟となり、広島赤十字・原爆病院に改称。中央右は2004年にできた21階のNTTドコモ中国大手町ビル、その右側が広島市役所(85年完成)、右端に現存する広島文理科大本館(91年の移転まで広島大理学部校舎)がある広島大本部跡地では、昨年から高層マンション2棟の建設が進む=貯金支局跡に03年できた千田町アインスタワーの19階屋上から撮った15枚のカットをつないだ(撮影・今田豊)
姉弟 奪われた未来

 「頭髪の抜けた姉弟」の写真は、広島市の原爆資料館の図録「ヒロシマを世界に」で「被爆した姉(当時11歳)と弟(当時9歳)」と紹介されているのをはじめ、原爆関連の書籍でよく掲載されている。放射線障害の恐ろしさを示す歴史的な写真だ。しかし、名前も被爆時の年齢もまちまち。確かめてみた。

 姉は池本アイ子さん=被爆当時九歳、弟は徹さん=同七歳=だった。二人とも既に亡くなっていたが、親族を捜し当てることができた。

 父の友一さん(一九九五年に九十歳で死去)が被爆翌日に受け取り残していた罹災(りさい)証明書に、当時の住まいは中区の「舟入町五四」とある。母タメ子さん(二〇〇一年に九十五歳で死去)の生前の証言を合わせると、姉弟は神崎国民学校に通い、空襲に備えて分散授業所があった自宅近くの銭湯で被爆し、いったんは防空壕(ごう)に逃げた。重傷者が運ばれてきたため外に出され、放射線降下物を含む黒い雨を浴びた。

 家族は戦後、南千田西町(中区)に移り住んだ。徹さんは小学六年生となった春の遠足から戻ると急に体調を崩し、四九年六月十七日に十一歳で死去した。

 アイ子さんは中国電力に勤め、結婚。男児をもうけて間もなくガンに襲われた。広島大医学部付属病院での闘病に父が仕事を辞めて付き添うなどしたが願いは届かず、六五年一月二十一日に死去。まだ二十九歳の若さだった。

 一面の写真に見えるアイ子さんのもんぺは、自宅も焼けた後に母が親族から譲ってもらった着物をほどいて作ったという。亡き両親宅の仏壇に納められていた姉弟の遺影は広島赤十字病院で撮られた、この二枚だった。

廃虚に立つ広島赤十字病院(45年10月6日) 爆心地から1.5キロの病院は、医師や看護婦(師)・看護婦生徒ら554人のうち51人と入院の軍患者ら5人が死去したが、本館などへの延焼を食い止め、被爆当日から収容者を応急治療した。院内で被爆した竹内釼病院長は後に市医師会の座談で、本館に旗を掲げた赤十字の活動が市民を勇気づけ、「原子砂漠のオアシスと言われました」と回顧している(61年発刊の「広島原爆医療史」に収録)
頭髪の抜けた姉弟(45年10月6日) 写真上が池本アイ子さん、下が徹さん。撮影記録には「日赤外来患者」と記したアイ子さんの症状が残る。初診は9月24日。「脱毛 食慾(よく)不振。歯眼出血 発熱」などとある。姉弟は2人そろった写真を含め7カットを撮られていた
熱線を浴びた兵士(45年10月6日) 菊池さんが残した撮影記録によると、兵士は中国軍管区兵器部(中区上八丁堀)で被爆した。「火傷(略)広範囲ニわたり 頭髪脱毛 下痢 発熱40(度)」だった