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菊池俊吉が撮った原爆写真V
2007/03/28
原爆写真 データベース化 写真家・菊池俊吉さん撮影860枚

 写真家の菊池俊吉さん(一九一六―九〇年)が廃虚の広島で撮った原爆写真について、広島市の原爆資料館と中国新聞社は、広島国際文化財団(山本信子理事長)の助成を得て、ネガから焼いたオリジナルプリント計八百六十枚を電子化して保存する。撮影日・場所や写っている内容を確かめて説明を付けたデータベースを四月から共同でつくり、インターネットなどでも発信する。(編集委員・西本雅実)

資料館と本社、ネット発信へ 広島国際文化財団が助成

 ネガを保管している東京都在住の菊池さんの妻徳子さん(82)との間で保存・使用にかかわる覚書を結んだ。プリントは、35ミリネガからが七百七十一枚、六六判(六センチ×六センチ)が八十九枚でいずれも画像は鮮明。旧文部省の原爆災害調査団の記録映画班に同行して、四五年十月一日から二十日までに撮られた貴重な原爆写真が、六十二年ぶりに被爆地にそろった。

 菊池さんの原爆写真は、米軍の接収を経て七三年に文部省へ返還された複写(二百十四枚)が一般に公開されてきたが、不鮮明なうえに誤った写真説明も少なくない。

 ネガの現存を明らかにした徳子さんに、中国新聞社が昨年から資料館と被爆地での保存を働き掛けていた。広島国際文化財団は電子データ化の費用を助成する。

 資料館の前田耕一郎館長は「被爆直後の人体への影響も収めた貴重な写真をきちんと保存・調査して、企画展やネットで広く伝えていきたい」と話している。

被爆地で保存されることになった菊池さん撮影の1枚。原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)や、奥の相生橋の荒涼とした崩壊ぶりが、原爆のすさまじさを伝える(1945年10月1日)

こらえきれぬ痛さ

 原爆による広島の惨状を克明に収めた写真家、菊池俊吉さん(一九一六―九〇年)の貴重な記録写真が、被爆地で保存される。原爆資料館と中国新聞社は、ネガフィルムを保管している東京都在住の妻徳子さん(82)の協力と、広島国際文化財団の助成を得て、ネガから焼いた計八百六十枚を電子化して保存し、詳しい説明を付けてインターネットでも発信する。「一九四五年八月六日」に何が起きたのか、ヒロシマが持つ意味をあらためて国内外に伝えていく。(編集委員・西本雅実)

「伝え残す」強い思い

 菊池さんが、旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行して四五年十月一日から二十日まで当たった撮影を述懐した一文が残る。自らも呼び掛け人となり八二年につくった「反核・写真運動」が編さんした「原爆を撮った男たち」に収められている。

 その中で「見るからに痛々しく、写すのが申しわけない気になる」と記したのが、広島赤十字病院に収容された兵士の撮影。全身やけどのうえ下痢など急性放射線障害の症状に襲われていた。

 「映画のライトの熱でやけどがピリピリしていかんのです。その当時はこれ以上痛いめに遭わせてくれるなの気持ちでした」。被写体となったのは、呉市中通に住む佐々木忠孝さん(86)。広島市中区上八丁堀にあった中国軍管区兵器部に所属し、爆心地から北東約一キロの広島城の堀端で閃光(せんこう)を浴びた。焼け残った福屋百貨店に二日後かつぎこまれたところを捜しに来た妻らが見つけ、担架で赤十字病院に運んだ。

 収容者は病棟でもイワシのように並べられ、食事といえば孟宗(もうそう)竹に入れた玄米が配られる程度。毎日、四、五十人のペースで亡くなっていったという。

 「家族が鍋釜を持ち込み食べさせてくれなかったら、とうに死んでいた。それで、重藤さん(副院長で後に初代原爆病院長となる重藤文夫さん=八二年死去)が『奇跡の生存者がいる』と紹介して、映画に撮られたわけです」。撮影間もない十月下旬、「同じ死ぬなら郷里の自分の家で」の思いから現在の竹原市に戻った。家族の懸命な介護もあり三年後に社会復帰したが、入市被爆した妻は後に三十九歳の若さで亡くなった。

 原爆記録映画は日本映画社が製作し、完成後に米軍が接収。文部省へ六七年返還されたが、公開は「生々しすぎる」と「人体への影響」をめぐるシーンを十三分カット。紆余(うよ)曲折を強いられた。カット部分が七〇年に初めてテレビで全国放送され、佐々木さんは自身が映画に登場しているのを確認した。金融機関に勤め、再婚した妻と四児を育てる日々にあった。

 被爆体験を人前で語るようになったのは七十歳に近づいたころから。呉原爆被爆者友の会に語り部会もつくった。上半身に残るケロイドを撮った写真に加え、映画からの複製プリントも手に入れて証言した。その佐々木さんにして、オリジナル写真があるとは思いもしなかったという。

 「私も年で広島に来て修学旅行生らに話すのはもう無理だが、こうした写真を通して、原爆が無辜(むこ)の民を殺してしまうことを伝えていってほしい」。浴衣をはだけて無残な姿をさらし目もうつろな自身が写る六カットをはじめ、被爆地にそろった菊池さん撮影の原爆写真を見ての願いを託した。

 菊池さんは、廃虚での撮影を「放射能の目に見えない怖さと、撮影者として写しがいもあったことを感じた」と書き残している。究極の大量殺りく兵器である原爆がもたらした世界を伝え残す使命感にかられ、被写体への「申しわけない」との気持ちを抑え込んでシャッターを切った。

 広島から戻ると、木村伊兵衛らと写真集「東京 1945年・秋」を出版し、独立。科学実験や東北の農山村を撮り続けた。湯川秀樹、朝永振一郎とも親交を結び、核兵器の全廃に声を上げたノーベル賞物理学者らのプライベートな表情も収めた。妻の徳子さんは「広告宣伝の撮影は引き受けようとせず、こうと思ったらテコでも動かない人でした」と、七十四歳で逝った報道写真家の横顔を表した。死因は急性白血病だった。

広島赤十字病院でやけどを見せて横たわる佐々木さん(45年10月6日) 左上半身から背中にかけて焼けただれ、頭髪は戦闘帽をかぶっていた部分以外は焼けた。左手の小指と薬指は今も自由が利かない。浴衣は家族が持ってきた
れんが造りの壁だけが残った中国軍管区兵器部(45年10月8日) 焼け残った広島逓信局(中区東白島町)の窓から撮影している。手前が兵器部で奥に立つのは福屋(鉄筋8階のビルは現存)、その左側に塔が見える建物は中国新聞社新館(移転後は三越広島店)
被爆した中国軍管区兵器部跡近くに立つ佐々木さん。「兵器部は80人ほどがいましたが、ほとんどが助かりませんでした」(撮影・増田智彦)
欄干がすべて落ちた元安橋(45年10月1日) 爆心地から南西130メートルの元安橋は親柱の笠石もずれ、原爆災害調査団の科学者らはずれの形から爆心地の推計もした。橋の西詰めは燃料会館。手前と奥は平和記念公園となり、会館は改修されレストハウスとして現存している
廃虚の中心街(45年10月4日) 手前に見えるのが大手町筋で、屋根が崩落した左の建物は農林中央金庫広島支所、右は三和銀行広島支店と金融機関が並んでいた。両店舗の間に延びるのが本通り。道幅を6メートルから11メートルに拡幅し、広島を代表する商店街として復興していく
火炎の跡が残る広島駅(45年10月9日) 爆心地から1・9キロの鉄筋2階の広島駅は全焼し、屋根は抜け落ちた。バラック建ては事務室と切符売り場。プラットホームは、外地から宇品港や大竹港に上陸して列車を待つ復員兵の人波で埋まった
救護病院へ運ばれて来た幼子(45年10月11日) 西区の大芝国民学校(現大芝小)は、日本医療団が市内6カ所に設けた救護病院の一つで、記録映画班の撮影場所となった。映画の企画から編集までを担った相原秀次さん(98)のメモ(原爆資料館に一昨年寄贈)によると、幼子は容体が急変して母が連れてきて診てもらった時には亡くなっていた。右は自らも被爆しながら治療に当たった長崎五郎病院長(50年死去)
枕崎台風で壊滅した大野陸軍病院(45年10月13日) 被爆した民間人も収容した大野陸軍病院(現廿日市市宮浜温泉1丁目)は9月17日午後10時半ごろ、枕崎台風による山津波で中央病棟などが押し流され、ここを拠点に活動していた京都大原子爆弾災害総合研究調査班のメンバー11人を含む156人が死去。残った東病棟(右端)なども土砂で埋まった
広島湾沖合の島々まで見えた横川駅前(45年10月15日) 左の建物は爆心地1・7キロの市信用組合本部で、後に信用金庫横川支店となり90年に建て替えられた。南に延びる道筋の奥が横川橋。テントは焼け落ちた駅舎の代替施設だった
混乱のうちにはやった「爆弾症(原爆症)のお灸」(45年10月20日) 荒神町(南区)で焼け出された鍼灸(しんきゅう)院が、府中町への移転を伝えている。白血球の減少など急性放射線障害による死者が続き、被爆した市民らの間ではお灸もはやった。中国新聞9月8日付には「すぐすえろお灸 原子爆弾症に奇跡的な効果」の見出しが付いた記事が載り、医学者も認めているとした