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佐々木雄一郎が撮った原爆ドーム
2007/06/05
惨状 原爆ドームの証言 佐々木雄一郎さん撮影写真、DB化へ

 ヒロシマを撮り続けた佐々木雄一郎さん(一九一七―八〇年)の記録写真を、広島市の原爆資料館と中国新聞社がデータベース化する。廿日市市に住む長男の塩浦雄悟さん(58)が同意し、被爆直後の惨状からを収めた貴重な五百七枚のオリジナル・プリントを一次分として寄せた。整理と調査のうえで詳しい説明を付け、インターネットでも発信していく。(編集委員・西本雅実)

資料館と本社 1次分507枚 ネットでも発信

 佐々木さんは広島市中区の出身。東京でカメラマンをしていた四五年八月六日、母や兄家族ら肉親十三人が原爆で犠牲となった。十八日帰郷し、「せめてもの供養」と死んだ場所を探して撮影を始め、亡くなるまで被爆の実態に迫った。とりわけ原爆ドームにいち早く着目し、公園化による周囲の変ぼうぶりも詳細に収め約四千枚を残した。

 生前は、被爆地を代表するカメラマンとして知られたが、それらの写真を意に反して使われたこともあり、遺族は保存に心を砕く一方で公開を控えるようになった。

 雄悟さんは「父が生涯をかけて撮った写真を受け止めてもらえるならば協力します」と、入院中の母喜代美さん(85)の思いを込め、電子保存化に同意。一次分の写真のほかに七〇年までに撮った約七千枚のネガを年代順に焼き付けていた撮影台帳二十冊も寄せた。

 前田耕一郎資料館長は「被爆の惨状にとどまらず市民の暮らしぶりも丁寧に撮った佐々木さんの写真は類を見ない。保存と活用を図っていきたい」と話している。

 原爆記録写真の保存と国内外へのさらなる発信を目指し、資料館と中国新聞社は、旧文部省の調査団記録映画班に同行した写真家菊池俊吉さん(九〇年死去)が撮った八百六十枚を遺族から三月に提供を受け、データベース化を進めている。

佐々木さんが1945年8月下旬に撮影した爆心地からの原爆ドーム。手前の円形窓の残骸(ざんがい)が原爆のさく裂直下となった島病院。爆心地とドームが共に記録された写真では最も早い
「ドーム」呼称 米軍が使用

 中国新聞社は今回、世界遺産の登録名でもある「原爆ドーム」の呼称の由来を日米のメディア報道などから検証した。爆心地そばで残った「広島県産業奨励館」を「ドーム」と表したのは米軍で、占領明けの1952年には呼称が定着した軌跡が浮かび上がった。
 米軍機関紙スターズ・パシフィック・アンド・ストライプス(日本版)が、46年8月6日付で「原爆はドーム状ビルディングの上空で爆発した」と写真を載せ、米第八軍(横浜)などが同年に作った広島観光の冊子も「ドーム<rルディング」と記述していた。
 日本側は、毎日新聞(大阪版)が45年9月13日付で写真を初掲載。中国新聞は46年夏から「産業奨励館廃虚」を載せ始め、翌年に「ドーム」と表していった。詳細は本日付の「ヒロシマの記録」で紹介する。

廃虚に立つドーム(1945年12月) 手前の道筋は、現在の平和記念公園へと延びる本通り商店街。左端は本川国民学校、その隣はほぼ爆心直下のため倒壊を免れた広島郵便局の電信塔。中央は旧商工会議所ビル。鳥居は護国神社で、その右側が現在の市民球場となる。写真2枚をつないで掲載
物言わぬ墓標 惨禍告発

 原爆の惨禍とそこからの再生を見つめた佐々木雄一郎さん(一九一七―八〇年)の写真が電子化して保存、発信される。長男の塩浦雄悟さん(58)=廿日市市=が、中国新聞社の求めに応じて原爆資料館とのデータベース化に同意した。ヒロシマを代表した写真家は、原爆ドームにいち早く着目して「核時代」を切り撮った。レンズによる証言者の半生と「ドーム写真」をたどる。(編集委員・西本雅実)

復興・変ぼう 執念で写す

 佐々木さんの素顔を、雄悟さんは「頑固。また、そうでなければ、できなかった仕事だと思う」と語った。晩年まで毎日のように自転車で回っては被写体にカメラを向けた執念ともいえる撮影ぶりは、廃虚への帰郷から始まった。

 現在の広島市中区西十日市町に生まれ、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。敗戦により退職金代わりのフィルムを携えて四五年八月十八日に帰ると、母や兄家族、姉、妹ら肉親十三人が亡くなっていた。生前にこう語っている。

 「最初は肉親の死んだ場所だけを写すつもりだったのに(略)もう一度写したいという場所が見つかる。そんなことからとうとう深入りしてしまいました」(中国新聞六八年八月三日付)。家族の墓標図はデルタ一面に広がっていた。

 本社が焼失した中国新聞社もフィルムが手に入らなかった時代。佐々木さんは、外国人カメラマンの案内をして百フィート巻きのフィルムを確保するなどした。朝早くからカメラを手に歩いていると警察官に尋問され、市民からにらまれたりした。それでも復興のつち音とともに現れ、消えていく光景を撮った。元宇品町(南区)に住み着くと観光写真撮影で生計を立てながら、ヒロシマを記録し続けた。

 親交を深めた元中国新聞社会部記者の松浦亮さん(73)は、佐々木さんの「写そうにも人がいないんだよ」との言葉が忘れられないという。レンズの向こうに死んだ肉親らの姿を見ていた。

 「被爆の痛みを知り、声高に叫ぶヒロシマより物言わぬ墓標を一徹に撮る。原爆ドームにこだわったのもそこから」。松浦記者が紹介した東京の記録映画監督の奔走もあり、ドームの保存工事が行われた二年後の六九年に銀座・松屋で写真展「広島の日記」を開き、反響を呼ぶ。そのパンフレットに廃虚からの撮影をこう表していた。

 「シャッターをきっているうちに、気がついたら約一〇万枚。今はこのネガがわたしのすべてだ」。職業病である眼病を乗り越え、組織に属さず市井のカメラマンを貫き記録し続けた誇りが伝わる。

 翌年には「写真記録 ヒロシマ25年」(朝日新聞社)を出版し、その後も日英両語版の「広島の日記」を自ら刊行。原爆写真の収集と保存を呼び掛け、七八年に「広島原爆被災撮影者の会」の結成をみた。二十人から二百七十八枚が集まったが、佐々木さんは会を退き、八〇年に肝不全のため六十三歳で死去した。

 「撮影者の会」が提供した複写プリントが資料館の展示などで注目される一方、佐々木さんの写真は「知る人ぞ知る」存在となった。妻喜代美さん(85)が大切に保存する写真を求めに応じて貸し出すと、誤った説明が付いたり返却されないこともあった。

 今回、雄悟さんは入院中の母と相談して、電子保存化のため一次分の五百七枚の写真を、撮影ネガを年代順に焼き付けていた台帳二十冊とともに寄せた。遺志を生かそうとの思いから踏み切った。

 佐々木さんは生前こうも語っている。「私は、これらの写真が生き証人となってほしいと願って写し続けた」

「ドーム状ビルディングの上空で…」米軍機関紙が46年8月記述
占領明け52年 呼称固まる

 原爆ドームの名は、「いつ頃(ごろ)からともなく、市民の間の誰いうともなく自然に言い出された」。広島市が九〇年に表した説明をマスコミもよく引用する。本当にそうなのか。検証すると、日米が互いに「原爆ドーム」と呼んでいった軌跡が分かった。

 原爆は、れんが造り三階建ての「広島県産業奨励館」の東南約百六十メートル、最新の研究では上空約六百メートルでさく裂した。

 「商工奨励館の天井は抜け落ちてゐる」と、写真付きで初めて報じたのは毎日新聞(大阪版)四五年九月十三日付。被爆からの再建にあった中国新聞は四六年六月八日付の「戦災地写生大会」の記事で初めて写真を添えた。別会社発行の夕刊ひろしまは同七月六日付で、中島本町に供養塔が建ったことを伝え、対岸の「産業奨励館廃虚」と掲載した。爆心地一帯の公園化構想が起きていた。

 では、「ドーム」と呼んだのは―。国立国会図書館で所蔵の英字紙などを当たると、米軍機関紙スターズ・パシフィック・アンド・ストライプス(日本版)が、四六年八月六日付で「原爆はドーム状ビルディングの上空で爆発した」と廃虚の光景を掲載していた。翌年八月五日付は一面で「当局は記念保存を決めた」と報じた。公園化を保存と受け取ったのか。だが、この時点では決まっていない。

 また、日本占領に当たった米第八軍と英連邦軍が作成した冊子「広島観光 原爆都市」が、「“ドーム”ビルディング 周囲二キロは全焼」とイラスト付きで載せていたのが分かった。四六年に広島を訪れた英国人少佐の遺族が、資料館に一昨年寄せていた。

 一方、ジョン・ハーシーの名著「ヒロシマ」(ニューヨーカー四六年八月三十一日号掲載)や、市などによる第一回平和祭を特集したライフ四七年九月十五日号は、「産業奨励館」の訳語である。

 中国新聞で「ドーム」の言葉が使われるのは四七年八月二日付。平和祭を前に「やぶれ去つたドームが天に平和を訴えるかのように屹立(きつりつ)し」と記した。

 もっとも旧奨励館は、市復興局が直後に選定した「原爆十景」には入っていない。復興顧問に就いたオーストラリア人少佐が提唱した翌四八年の「原爆名所」で盛り込まれる。復興のつち音が高まり、爆心地一帯の公園化が計画される中、「あの日」をとどめる西洋式建築の円屋根が被爆地のシンボルとなっていく。

 平和記念公園の設計当選作を報じた四九年八月七日付の中国新聞は、「アトムの残骸(ざんがい)旧産業奨励館のドームを見通し得る」と、原爆の惨禍を重ね始めた。

 さらに「原爆ドーム」の言葉は、五〇年六月二十三日付の社説「観光への忠言」で登場したが、二日後に朝鮮戦争が起きるとたちまち消えている。原爆使用を公言した米軍を意識したのか。

 ただ、このころには親を失った子や、やけどの傷が残る女性らに「原爆」の二文字を付けて呼んでいた。顧みれば、被害をみるとはいえ「原爆」を付けるのは心ない呼び方でもある。

 今回の調査に協力した資料館情報資料室は、五〇年九月発行の俳句誌「夜」で「鉄鈷雲(かなとこぐも)原爆ドームに蟻狂ふ」の句を見つけた。作者は入市被爆した庄原市の高校教諭藤井美典さん(二〇〇三年死去)。占領軍の検閲リストに入っていなかったが、「原爆ドーム」と呼んで被爆の実態を託した最も早い表現とみられる。

 対日講和条約へと至る五一年、中国新聞八月六日付や読売新聞(東京版夕刊)八月十六日付が、それぞれの空撮写真を「原爆ドーム」と記述。翌年八月に出た「原爆第1号ヒロシマの写真記録」(朝日出版)は「“原爆ドーム”の惨状」と見開きで扱う。十一月の「改造増刊号」には物理学者武谷三男さん(二〇〇〇年死去)が「原爆ドーム」と表したルポが載る。

 結論づければ、占領が明けた五二年に「原爆ドーム」の言葉は広く使われ出した。市も五三年版の市勢要覧に収めた観光地図でその呼称を採った(本文は旧産業奨励館)。

 ニューヨーク・タイムズは、五五年七月三十一日付の「広島十年後」の特集をこう書き出している。「産業奨励館は壊滅のシンボルとして保存されており、焼けて曲がった鉄骨のむき出しの円屋根から“アトミック・ドーム”と名付けられた」。ここで日米とも定着したといえる。

 核兵器使用の惨禍と警鐘を刻み、九六年に世界遺産となった登録名は「ヒロシマ・ピース・メモリアル(ゲンバク・ドーム)」である。

建設途上の平和記念公園に立つドーム(1952年) 公園は旧制広島高OBで当時は東京大助教授だった丹下健三さん(05年死去)が49年に設計。着工後も公園にはバラックがまだ続いていた。後方の建物は市レストハウス。被爆者らがもっこを担ぐ公園建設の写真からは、佐々木さんのヒロシマを見る視点の鋭さと温かさがうかがえる 
元安川右岸から望むドーム(1947年) 広島県産業奨励館だったドームは、チェコ人ヤン・レツルの設計で1915年に「県物産陳列館」として誕生(33年に奨励館と改称)し、広島名所の一つだった。佐々木さんの写真をたどると、正面玄関左側の壁は被爆した年は残っていたが、この時点で崩落していたのが分かる 
占領期に出た「ヒロシマフオトアルバム」で掲載されたドーム(1949年8月1日) 「夜明のドム(産業奨励館)」の説明で扉を飾った。佐々木さんが編集し、広島平和協会(会長・浜井信三市長)が10月刊行した写真集は今回、資料館の書庫から見つかった。国内で出た原爆写真集では最も早い。24枚を収録し、中国新聞カメラマンの松重美人さん(2005年死去)が撮った被爆当日の市民の写真も使われていた 
竹矢来で囲まれ、英語の案内看板も掛かるドーム(1949年) 「光と影の瓦」「爆心地を訪れた記念物」などと書かれた看板は、ドーム南側にある西蓮寺の住職(74年死去)が掲げ、原爆瓦を境内で展示していた。ドーム右の壁は崩れ、現在は鉄柵が囲む中でらせん階段がむき出しとなる 
ドーム内部から望む平和塔(1950年) 爆心地対岸の中島本町慈仙寺鼻(現在の平和記念公園北側)に47年建てられ、第1回平和祭の会場となる。だが、市民からは「お祭り騒ぎ」と批判を浴びた。翌年の平和祭では建物の背後に書かれているように「ノーモア・ヒロシマズ」を訴えた。塔は51年に撤去 
落書きが目立つドームの壁(1951年) 佐々木さんは占領軍や外国人観光客によるとみられる落書きが刻まれた壁をしばしば撮っている。中には「ノーモア・ヒロシマ」と読めるものもある。こいのぼりがはためくのは南側の細工町(現大手町1丁目)
行幸記念の碑が立つドーム(1951年) 高さ4メートル、幅6メートルの碑は、昭和天皇が訪れた47年12月に建てられた。左側に被爆前、別カットに残る右側に被爆後の旧奨励館の絵と、敷地内の噴水に使われていた石の彫刻をはめ込んだ。市観光協会が「原爆記念」と書いた看板のそばには、日英両語で「原子爆弾は第二次世界大戦の終止符となり」と占領当時の見方を伝える説明板があった 
旧商工会議所4階屋上から望むドーム(1953年) この年にドームは県から市に譲渡された。奥に見える原爆資料館は51年3月に着工したが予算不足のため翌年に中断し、素通しの光景から「鳥カゴ」とも呼ばれた。完成は55年8月。ドーム周囲を含む平和記念公園から民家が立ち退くのは59年。ヒロシマの骨格づくりは長い道のりを要した 
被爆から62年となるドーム。 市は議会の保存決議を経た翌67年に正面玄関左側の壁を接合するなどの工事に続き、89年、2002年と3回の保存工事を行った。右側ビルの向こう側が爆心地の島病院(現島外科)に当たる(撮影・高橋洋史)