中国新聞社
2011ヒロシマ
'11/8/2
<時代映す平和宣言3>歴代市長宣言

 世界へヒロシマの願いを発信する平和宣言は、その時々の時代背景を色濃く反映している。進駐軍の占領、ビキニ水爆実験による第五福竜丸の被曝(ひばく)、ベトナム戦争、そして東日本大震災による福島第1原発事故…。戦後の歴代6市長が読んだ平和宣言の変遷をたどる。

 人類の破滅を警告

 ■浜井信三市長(4期、1947〜55、59〜67年)

 最初の平和宣言は47年の平和祭で浜井市長が読んだ。「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味する」と警告。一方で原爆が「不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸いであった」とも。このくだりについて宣言文作成に関わった元職員は74年の中国新聞記事で、進駐軍がいたため、怒りや苦悩を込めたヒロシマの生の声がぶつけられなかったと証言している。

 朝鮮戦争が起きた50年は連合国軍総司令部(GHQ)の指示で式典自体が中止。51年も宣言はなく「市長あいさつ」とされた。米国のビキニ水爆実験で第五福竜丸が被曝した54年は「原子爆弾につぐさらに恐るべき水素爆弾の出現を見」たとして核の脅威を訴えた。

 落選を挟み4期目の65年は激化するベトナム戦争に対し「大いなる危険を冒しつつ武力抗争が繰り返されている」と憂慮した。

 被爆者の窮状訴え

 ■渡辺忠雄市長(1期、55〜59年)

 渡辺市長は被爆10年の55年、「6千人の原爆障害者は、今なお、必要な医療も満足に受けることができず」と被爆者の窮状を初めて訴えた。57年は東西陣営による冷戦下の核抑止論について「愚かなまぼろしにすぎない」と痛烈に批判。58年には原水爆禁止の世論を受けて「核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立」を求めた。

 平和教育を説く

 ■山田節男市長(2期、67〜75年)

 山田市長はベトナム戦争の激化や第3次中東戦争が勃発した67年、「人類は生か死か、破滅か繁栄かの岐路に立っている」と憂慮した。71年には「次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するため」と平和教育の推進を説いた。

 73年の宣言では、ベトナム和平協定、日中国交正常化を挙げ「雪解けの機運」を喜ぶ一方で、核実験を続ける米国、中国、ソ連を「まさに時代錯誤であり、全人類に対する犯罪行為」と糾弾した。インドが初の核実験をした74年の宣言では「国連において、核保有国のすべてを含む緊急国際会議を開き、核兵器の全面禁止協定の早期成立」を提唱した。

 体験継承を決意

 ■荒木武市長(4期、75〜91年)

 荒木市長は被爆30年の75年、「『水、水』と息絶え絶えに水を求める声」と被爆時の街の惨状を詳細に述べた。76年は「広島市長は長崎市長とともに国連に赴き、被爆体験の事実を生き証人として証言」との決意を宣言した。荒木市長は世界の場で核兵器廃絶を訴える一方、79年には被爆者援護について政府への期待を表明した。

 81年は、67年に当時の佐藤栄作首相が表明した「非核三原則」に初めて言及した。広島市長が会長を務める平和市長会議の前身、世界平和連帯都市市長会議が発足した82年は、国際的な都市間での連帯を呼び掛けた。

 国際法違反盛る

 ■平岡敬市長(2期、91〜99年)

 イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が起きた年に就任した平岡市長は、その年の平和宣言で武力によらない紛争解決の確立を要請。また、3年後に広島アジア大会を控え「日本はかつての植民地支配や戦争でアジア・太平洋地域の人びとに大きな苦しみと悲しみを与えた」と謝罪を盛り込んだ。

 94年は原爆ドームの世界遺産化を目指す運動に触れ「人類に警告を発し続ける世界の史跡」と意義を強調した。96年は国際司法裁判所が出した「核兵器の使用は国際法に違反する」との勧告的意見を紹介。「核兵器廃絶を求める国際世論は徐々に、しかも着実に広がっている」と期待した。インド、パキスタンが相次ぎ核実験を強行した98年は、核軍備競争の連鎖反応に憂慮し世界各国に対し「核兵器使用禁止条約の締結交渉を直ちに開始すべきである」と訴えた。

 和解を呼び掛け

 ■秋葉忠利市長(3期、99〜2011年)

 「です、ます」調を取り入れた秋葉市長は2000年、「自ら憎しみや暴力の連鎖を断つことで『和解』への道を拓(ひら)くよう」世界に訴えることを宣言した。02年は前年の米中枢同時テロを受け「被爆者が訴えて来た『憎しみと暴力、報復の連鎖』を断ち切る和解の道は忘れ去られ」と訴えた。

 04年は平和市長会議が掲げる20年までの核兵器廃絶の実現を訴えた。09年は米国のオバマ大統領が「核兵器のない世界」を提唱したプラハ演説に言及。核兵器廃絶を願う多数派の市民を「オバマジョリティー」と命名し力を合わせるよう訴えた。そしてオバマ大統領が大統領選で使った「Yes,we can」(絶対にできます)と英語で締めくくった。

 平和市長会議の拡大に尽力した秋葉市長は最後の宣言となった10年、加盟都市が4千を超えたことを報告。後に就任した松井市長が断念することになる20年夏季五輪の招致に意欲を示した。


MenuTopBackNextLast
ページトップへ