第1部 シンデレラ・キッズ@

2006.03.21
 ☆最高峰の舞台☆    白人以外 初のプロ選手 
 
1947年、ニューヨーク・ニッカーボッカーズのユニホームを着たミサカ(中)。左はジョー・ラプチック監督((C)Bettmann/Corbis)

 二〇〇四年十一月、待ち望んでいた光景が実現した。本場に田臥(たぶせ)勇太が、日本人で初めてNBAのコートに立った。「長い間、この日を待っていたんだよ」。米国ユタ州ソルトレークシティー近くで老後を過ごすミサカは、静かに思い起こしていた。

★ニックス入団

 一九四七(昭和二十二)年十一月十三日。NBAの前身でBAA(Basketball Association Of America)は二季目の開幕を迎えた。ニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)とワシントン・キャピタルズの対戦。バスケットの聖地、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンは、約一万五千人の観衆でむせ返った。

 観客の視線の先にニックスの背番号「15」があった。身長五フィート七インチ(約一七〇センチ)の小柄なルーキーの登場に、歓声がひときわ大きくなった。この年三月の全米招待大学選手権(NIT)で優勝したユタ大の出身プレーヤー。豊富な運動量と機転が利いたプレー、粘り強い守備でニューヨーカーの心をつかんでいた。

 日本名を「三阪(みさか)亙(わたる)」といった。日米両方の国籍を持っていた。両親が広島県岩子島村(現尾道市向島町岩子島)出身の青年は、BAA十一チームでたった一人の、白人以外の選手だった。

★3試合の出場

 ニックスは現在も人気が高い。「最初のドラフト指名選手は誰か」と、今でもよくファンの話題に上る。ドラフトは四七年にスタートした。ネッド・アイリッシュ社長は飛行機でソルトレークシティーへ赴いた。ユタ州最大のホテルの一室で、ミサカは入団契約書に第一号としてサインした。

 出場機会には恵まれなかった。ベンチ入りは十二人。3試合を終え、アイリッシュ社長に呼ばれた。「十二人の枠に抑えないといけない」と解雇を言い渡された。開幕から一カ月もたたず、荷物をまとめ一人で汽車に乗った。

 ニューヨークの新聞に短い記事が載った。「ニックスはミサカを放出した」。わずか六行。その後、米バスケット界にミサカが戻ってくることはなかった。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催